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2023年1月27日金曜日

イニシェリン島の精霊

突然言い渡された絶交。
精霊舞い降りるアイルランドの島で起きる二人の男の対立の行方


The Banshees of Inisherin
2020年/イギリス
監督:マーティン・マクドナー(「スリー・ビルボード」)
出演:コリン・ファレル、ブレンダ・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガン
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
上映時間:1時間54分
公開:2023年2月27日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、ほかロードショー

●ストーリー

1923年、アイルランドの西海岸に浮かぶイニシェリン島。内戦に揺れる本土とは別に、島ではのどかな時間が流れていた。ある日、誰からも愛されるパドレイク(コリン・ファレル)が、親友コルム(ブレンダン・グリーソン)から突然絶交を言い渡される。理由がわからず困惑するパドレイクは、妹シボーンや年下の隣人ドミニクを巻き込んで関係修復を図るが、逆にコルムは頑なな態度をとるようになる。そして、「これ以上俺に話しかけたら、自分の指を切り落とす」とコルムは宣言する。両者の対立は想像を絶する事態へと進んでいく。

●レヴュー

アメリカを舞台にした『スリー・ビルボード』(2017)の印象が強いが、マ−ティン・マクドナー監督はイギリス・ロンドン生まれのアイルランド系。映画監督の前に劇作家として知られており、アイルランドを舞台にした作品を多数発表している。両親の実家があるゴールウェイ周辺を扱ったリーナン三部作(コネマラ三部作)は、高い評価を得ている。さらに、ゴールウェイの西南にあるアラン諸島を舞台にした三部作、イニシュマン島のビリー(1996年)、ウィー・トーマス(2001年)、その3つ目に用意されていたのが、本作と同名の戯曲だ。劇としては未発表だという。
また、映画界に身を移して制作された処女長編ヒットマンズ・レクイエム(2008)は、本作と同じコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンの主演キャスティングで、二人のアイルランド人の殺し屋の逃避行とその末路を描いている。できれば、本作鑑賞の前にこちらの作品を見ておくと、連動感を感じられるかもしれない。


さて、本作も前作と同様、寓話的で、心理的で、グロテスクな展開が観る者を惹きつける。「イニシェリン島」は架空の島の設定で、物語も監督の創作のようだが、実際のロケ地はアラン諸島・イニシュモア。例えば、J.M.シングが書いた紀行文『アラン島』(1907)を読んだことのある人は、その中で見聞きされる島の生活や、老人たちが語るフォークロアと似た感触を持つだろう。原題の、精霊を意味する「バンシーズ」とは、「家族が死ぬことを知らせるために泣き叫ぶ女性の精霊」のことで、劇中で出てくる老婆(主人公パドレイクは彼女を避けている)がそれを体現していそうだ。

物語の核となるパドレイクとコルムの関係だが、いくつかの重層的な見方ができそうだ。まず、二人の仲違いは、島の外、本土で起きている内戦と呼応している。1922年から23年まで、アイルランドは自由国家として承認されたにもかかわらず、英国連邦の一部のままだった。英愛条約を支持する暫定政府と、反条約派のアイルランド共和国軍(IRA)の主導権争いで内戦が勃発。それが契機となった北アイルランドをめぐる紛争は現代にまで尾を引いている。

もう一つは、宗教的・文化的側面。パドレイクの名前はアイルランドの守護聖人であるパドレイク、すなわち「聖パトリック」を簡単に思い出せる。(最近、日本でも認知されつつあるセント・パトリック・デーの信仰対象である)フィドル奏者で音楽家のコルムが作曲のために、指を切り落として差し出す行為は、創作の痛みを表すとともに、芸術というものが神に捧げるものとして始まったという起源とダブる。それまでのコルムは「神との対話」が成立していた、と捉えることもできよう。
一方で「聖パトリック」がアイルランドにキリスト教を広めたという聖人であり、コルムが彼を拒絶する=キリスト教を拒否することは、キリスト教伝播以前の「ケルト文化の復興」を意味してると考えられないだろうか。

話は戻るが、前述のJ.M.シングの『アラン島』の中で、海外からゲール語を学びに言語学者が多数アラン島を訪れたことが書かれているが、この19世紀後半というのは、アイルランド独立運動と並行してケルト文芸復興運動が盛り上がっていく時期だという。1893年にダグラス・ハイドを中心に「ゲール語連盟」がダブリンで結成される。そのメンバーの系譜に、パドレイク・コルム(1881-1972)という詩人を見出せる。偶然にも、この映画の主人公「パドレイク」「コルム」二人の名前を同時に持っている人物だ。実はこのパドレイク・コルム含む一派は、あのJ.M.シングが書いた戯曲『西の国のプレイボーイ』の上演に際し、アイルランドの悪口書かれていると批判、暴動が起きるまでの事件になり、作家W.B.イェイツらと仲違いしているという逸話がある。
ジェイムス・ジョイスとも親交があるパドレイク・コルムは、詩の他に、戯曲、絵本、民話の収集なども手がけており、後年、アメリカに居を移し、生涯を終えている。アメリカ進出を果たしたマクドナー監督が好みそうな人物ではないだろうか?

メインのキャストは全てアイルランド出身の俳優で固めている。警官の父親に虐待を受けるドミニク役バリー・コーガンの演技には毎回舌をまく。(ファレルとコーガンはランティモス監督『聖なる鹿殺し』でも共演)こうしてみると、マクドナー監督が、民族主義者とまではいかないまでも、アイルランドを表象することに並々ならぬ情熱を注いでいるのではないか、と推測できる。劇中でコルムが作曲する「イニシェリン島の精霊」という同名曲は、アイルランド史へのレクイエムであり、現在も世界で起きている分断と戦争、死が迫りつつあることへの警告を意味してるのだろう。
                            (★★★★カネコマサアキ)

参考文献:『アラン島』J.M シング/柿崎正見・訳(岩波文庫)、『ケルト/装飾的思考』鶴岡真弓(ちくま文庫)、Padraic Colum(wikipedia)ほか

●関連情報

ヴェネチア国際映画祭2020 脚本賞・男優賞(ヴォルヒ杯)受賞2冠




2022年6月4日土曜日

歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡

親交のあったヘルツォーク監督が辿る伝説の作家チャトウィンの旅


2019年/イギリス・スコットランド・フランス
監督&ナレーション:ヴェルナー・ヘルツォーク
配給:サニー・フィルム
上映時間:85分
公開:6/4(土)より岩波ホールにて公開 (7/29まで)

●ストーリー

「パタゴニア」「ソングライン」など、伝説の紀行作家として知られるブルース・チャトウィン(1940-1989)。生前、親交のあったヘルツォーク監督が、没後30年にして、パタゴニア、イギリス西南部、中央オーストラリアへ赴き、関係者にインタビュー。彼の半生を辿る。

●レヴュー

ブルース・チャトウィンの自選エッセイ集「どうして僕はこんなところに」(池央耿・神保睦訳/角川書店)の中に、「ヴェルナー・ヘルツォーク・イン・ガーナ」という一編がある。19世紀の西アフリカで最強と言われたブラジル人奴隷商人を描いたチャトウィンの時代小説「ウィダの提督/ウィダーの副王」をヘルツォークが『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』(1987)として映画化。そのロケ地ガーナに招かれたチャトウィンが、混乱の撮影現場を書いた文章なのだが、読み返してみるとすこぶる面白い。

二人の出会いは、アボリジニの世界観を主題にした『緑のアリが夢見るところ』(84)の脚本を書くにあたり、手を貸して欲しい、とヘルツォークがチャトウィンに打診してきた時に始まる。のちに「ソングライン」として紀行文になる、オーストラリアを旅していた時のことだった。二人は出会う前からお互いの作品を意識しあっていた。1980年に出版された「ウィダの提督」の小説の構想段階で、「これを映画化するなら、ヘルツォークしかできないね」とチャトウィンは周りに語っていたという。また、ヘルツォークのことをこう書いている。二人の関係性がよく分かる文章だ。

”そのうち分かったことは、ヴェルナーが矛盾のかたまりであるということだった。非常にタフながら弱く、親しみやすい反面孤高の人で、禁欲的であり官能的であり、日常生活のストレスはうまく対処できないのに極限下での状況は切り抜けられる人物だった。
 そして歩くことの持つ神聖な面について、まともに会話のできる唯一の相手だった。私たち二人とも、歩くということはただ単に健康維持につながるだけではなく、この世の邪悪を正すことのできる詩的な活動であると信じていた。”


映画は、チャトウィンが1977年に出版したデビュー作「パタゴニア」の有名な冒頭から始まる。朗読している音声は、本人のもので貴重だ。10代の寄宿学校時代に通い詰めたというシルベリーヒルの遺跡、サザビーズに勤めていた頃に知り合った妻エリザベスが語るウェールズの思い出、「放浪者の選択」という原稿の発見など、知られざる側面が露わになる。後半には、彼のセクシュアリティと真の死因が語られ、思わぬ衝撃を受けた。
僕の持っている「パタゴニア」(1998年、めるくまーる)や、上記の「どうして僕はこんなところに」には「中国旅行中に風土病を患い、それがもとで」「旅行中に患った病気がもとで、48歳で夭折」と表記されていた。新版「ソングライン」(英治出版)のあとがきをよく読んでみたら、「HIV陽性」のことが触れてあった。チャトウィンはバイセクシュアルで、妻も認知していたという。

そして、死の病床でヘルツォークに託されたという愛用の皮のリュックサックと、それを背負って撮影に臨んだ映画『彼方へ』(91)のエピソードが監督とカメラマンの二人によって語られる。南米パタゴニアのセロトーレ山に挑む2人の登山家の対決を描いた、チャトウィンにオーマージュが捧げられた作品だ。
本作、全8章の最終章は、「ソングライン」の登場人物マリアンのモデル、ぺトロネッラによる朗読で幕を閉じる。その文章はアボリジニの死生観に、自身の死を重ねている印象が読み取れる部分だ。死の床で完成した「ソングライン」は妻エリザベスに捧げられている。

チャトウィンを追ったドキュメンタリーではあるが、同時に、ナレーションも担当するヘルツォーク監督の人と成りも伝わってくる作品だ。「世界は、徒歩で旅する人に、その姿を見せる」というヘルツォークの言葉をチャトウィンは好んでいたという。社会の常識や枠組みから逃れ、辺境や外部へと向かい真理を求めた稀代の放浪者たちの作品は、今後も僕らを未知への旅へと奮いたたせるだろう。

(★★★★カネコマサアキ)


関連事項

1968年多目的ホールとして開館し、1974年のエキプ・ド・シネマ発足より、数々の名作映、ワールドシネマを上映してきた岩波ホールが7月29日(金)をもって閉館する。
本作は最後の上映作品になる。

2020年10月13日火曜日

博士と狂人

「オックスフォード英語大辞典」の誕生秘話を描く実話




The Professor and the Madman

2018年/イギリス、アイルランド、フランス、アイスランド
監督:P.B.シェムラン
出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマー、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガン
配給:ポニーキャニオン
上映時間:104分
公開:2020年10月16日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー
HP:https://hakase-kyojin.jp


●ストーリー 

 19世紀後半のイギリス。英語辞典の編纂が遅々として進まないオックスフォード大学は、学士号を持たないたたき上げのマレー博士を編集責任者として抜擢する。シェイクスピアの時代まで遡りすべての言葉の出典を探し収録するという無謀とも思えるプロジェクトは困難を極め、いまだ「A」で足止めをくっていた。そんなマレーたちを救ったのは、依頼を呼びかける「声明文」に応じてひとりの人物から送られてきた大量のカードだった。しかしその送り主は、殺人を犯して精神病院に収監されていたアメリカ人マイナーだった。


●レヴュー 

映画のために作られたような話だが実話

 現代でもウィキを作るために、広く一般に呼びかけているが、この辞典の編纂はそれを100年前にしたようなもの。その単語が時代によってどう使われるようになってきたかを、初出をたどり、世紀ごとに用例を調べ、断絶がないかを調べる。ウィキもこの「OED」とも呼ばれる「オックスフォード英語大辞典」も大勢のボランティアによって作られている人類の叡智といっていいだろう。確かにすごい作業だ。
 演出や話運びはわりと凡庸だが、何よりも次の展開が読めないという基になった話が面白く、最後まで一気に見てしまう。映画のタイトルにもある「狂人」が辞典の編纂に関わっていたという事実も驚きだ。また、辞書の編纂というストーリーが進む中で、もうひとつのテーマとなる「罪と贖罪」が物語に厚みを加える。
 ギブソン側と制作側とのトラブルで、北米以外の多くの国ではネット配信公開になってしまったのが残念だが、興味深い内容を持った作品だと思う。(★★★☆前原利行)


言葉を一つ一つ収集し、分析や検討を重ねていく辞書編纂 その重みを感じられる作品

 言語学を独学で極め、辞書編纂を任された孤高の学者マレーと、精神を病み殺人を犯して収監された元軍医大尉マイナー。オックスフォード英語大辞典(OED)の編纂という偉業の裏にあった、出会うはずのなかったこの二人の物語が明かされる。
 マレーは、古語にも遡り全ての単語とその変遷を収録することを目指し、単語の収集を始める。OEDは全10巻、414,825語と182万以上の用例が収録されていることを考えると途方もない数。そこに至る方法は、その依頼を書いた「声明文」をあらゆる書籍に挟み込み、英語を話す人々から、単語とその用例を書いたカードを郵送してもらうというものだった。それを偶然目にしたマイナーは取り憑かれたように書物を調べ、マレーに単語カードを送り届けた。その結果、滞っていた編纂作業は一気に進むことになる。そうした知られざる辞書編纂のドラマとして興味深く、またそこに生まれた「博士と狂人」ふたりの結びつきや彼らの背景として描かれるドラマには、狂気と罪、許しと贖罪といった人間ドラマが緻密に描かれていて面白い。
 主演はメル・ギブソン、ショーン・ペンの二人だが、その脇を固めるイギリス人俳優たちの上手さが際立っている。イライザ役のナタリー・ドーマーは心の揺れを繊細に演じ、看守役、エディ・マーサンの確かな芝居がドラマを深みあるものにしている。衣装などにもイギリスの当時の雰囲気や趣を感じられ、引き込まれる作品になっている。(★★★☆加賀美まき)

2020年6月7日日曜日

15年後のラブソング

大人になりきれない大人たちのラブコメディ

Juliet,Naked

2018年/アメリカ・イギリス

監督:シェシー・ペレッツ
脚本:エフジェニア・ペレッツ、ジム・テイラー、タマラ・ジェンキンス
出演:ローズ・バーン、イーサン・ホーク、クリス・オダウド
配給:アルバトロス・フィルム
上映時間:97分
公開:2020年6月12日(土)、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開

●ストーリー 
 仕事もあり、長い付き合いの恋人ダンカン(クリス・オダウド)もいる30代後半のアニー(ローズ・バーン)。周囲からは安定した生活を送っていると思われていて、特に不満があるわけではないのだが、日々なんとなくモヤっとした思いを抱いていた。
 そんな折、1990年代に表舞台から姿を消した、ダンカンが敬愛する伝説的ロック・シンガーのタッカー・クロウ(イーサン・ホーク)から1通のメールが届く。それがきっかけとなり、イギリスの港町サンドクリフとアメリカ・ニュージャージー州の田舎町をつなぎ、彼らの奇妙な三角関係が始まる。

●レヴュー 
 それなりにやりがいのある仕事を持ち、腐れ縁のパートナーと一緒に暮らす主人公アニー。今の生活は安定しているが、なんとなくモヤモヤしているこじらせ女子。ある年齢に達して、そういう思いに陥っている人は少なくないかもしれない。そんな彼女に絡む二人の男性も大人になりきれない男たち。アニーと同居するダンカンは、90年代に表舞台から姿を消した伝説のロックシンガーに陶酔し、アニーそっちのけで彼を追うSNSの運営に忙しいオタク系。そのロックシンガーは、音楽活動を放棄して仕事もせず、元妻の家の倉庫に間借りして幼い息子と暮らしている超ダメ男。そんな彼には子供が5人もいるらしい。三人にはそれぞれに苦い経験や人に言えない思いがあるのだが、それを心に封印して毎日をやり過ごしてきてしまったようだ。年齢、性別や境遇で共感ポイントは違ってくると思うのだが、この三人をなぜか憎めない。その男女を三人の俳優が見事なアンサンブルで好演している。
 
 ある日、アニーはダンカンのSNSサイトに批判的な投稿をしたところ、タッカー本人から返信の書き込みが来る。それをきっかけに二人は繋がり、漫然としていた日々が少しずつ変化していく。新しい何を模索していく成り行きがさらりと描かれ、いくつかのトピックが軽妙に演出されていて心憎い。これから大人になる人も、今モヤっとしている人も、もう大人になりきってしまった人にも楽しめる小粋な作品だと思う。

 伝説のロックシンガーを演じたのはイーサン・ホーク。「いまを生きる」(89年)で、気弱な生徒を演じた美少年も、このところ「大人になれないダメ男」がはまっている。それがなぜかチャーミングに見えるのは、幅広い役を演じ分けるイーサン・ホークならではの魅力だろう。かくいう筆者も長年のファン。若いころのイーサンの写真が登場し、劇中、彼の歌声が聞けるのは嬉しい。また、タッカーの曲をネイサン・ラーソンやロビン・ヒッチコックといった面々が提供。90年代のオルタナティブロックのムーブメントが各所に散りばめられ、楽しめる作品になっている。
 原作は「アバウト・ア・ボーイ」などで知られるニック・ホーンビィの『Juliet, Naked』。イギリスの港町サンドクリフの風情がとてもいい。(★★★☆加賀美まき)



2019年10月30日水曜日

永遠の門 ゴッホの見た未来

At Eternity’s Gate

 ゴッホの最期の日々を描く。ウィレム・デフォーの熱演が光る


2018
監督:ジュリアン・シュナーベル(『バスキア』『潜水服は蝶の夢を見る』)
出演ウィレム・デフォー、ルパート・フレンド、オスカー・アイザック、エマニュエル・セニエ、
   マチュー・アマルリック、マッツ・ミケルセン
配給:GAGA、松竹
公開:118日より新宿ピカデリー他
公式HP : gaga.ne.jp/gogh/

■ストーリー
画家としてまだ評価されていなかったフィンセント・ヴァン・ゴッホは、出会ったばかりの画家ゴーギャンの「南へ行け」というアドバイスを受け、南仏のアルルにやってくる。しばらく安宿に滞在していたゴッホだが、カフェのジヌー夫人の紹介で「黄色い家」を紹介してもらう。やがてゴッホは絶対の美を見出していくが、孤独は彼と住民の間にトラブルも引き起こしていた。一見を案じた弟のテオは、金銭的な援助を条件にゴーギャンに兄と合流することをすすめる。

レヴュー
 1887年から1890年までのゴッホの最晩年を描いた映画。ゴッホ役のウィレム・デフォーの演技は高く評価され、ヴェネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したほか、アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。弟のテオにはルパート・フレンド、ゴーギャンにオスカー・アイザック、ジヌー夫人にエマニュエル・セニエ、ガシェ医師にマチュー・アマルノック、聖職者にマッツ・ミケルセンと他のキャストも豪華だが、全編デフォーは出ずっぱりだ。

一応、事実に沿ったゴッホの伝記映画風にはなっているが、セリフは少なく、カメラはただゴッホの姿を追う。
ゴッホだけのシーンが全体の半分ぐらいあるのは、ゴッホが孤独だからだろう。
撮影時62歳ぐらいのデフオーが、37歳で亡くなったゴッホを演じているが、特に違和感はない。
撮影はかなり特殊で、大半がゴッホに近寄った手持ちカメラの長回しと、遠近両用レンズを使ったゴッホの主観に近い映像だ。
画面は斜めになったり揺れたりして、人によっては前の方で見ていると酔うかもしれない。
遠近両用レンズを使った映像は、そのタイプの眼鏡を持っている人ならわかるだろうが、上半分でピントが合っていたら、下半分はボケで見える状態になっている。これは、他の人には見えない世界が見えたゴッホの視点を表している。
野心的な映像だが、それが効果的かどうかは個人的には疑問。画面が落ちかなくて集中できないからだ。

本作のゴッホの姿が次第にイエス・キリストにダブってくるのは偶然ではない。
そもそもデフォーは『最後の誘惑』でイエスを演じていたし、本作でも神父との問答で自分とイエスを重ねているゴッホのセリフが出てくる。
ゴッホは画家になる前は神父を目指していたので、聖書に詳しい。
「なぜ神は、誰も欲しがらない絵を描く才能を私に与えたのか。それは私の絵は、未来の人々のためのものだから」とゴッホは神父に言う。
イエスの教えも同時代の人々には受けいられなかった。
その時点では、キリスト教も“未来の宗教”だったとゴッホは言う。

かといってゴッホは聖人ではない。
特に彼の身近に暮らしていた人にとっては、いつ人に危害を加えるかわからない危ない存在だった。
映画でもセクハラまがいのことをしたのに、「記憶にない」とゴッホに言わせている。
南仏では子供に石をぶつけられて追いかけるが、最後には子供が自分に犯した罪を自ら被って死んでいく。

ゴッホが絵を描くシーンの多くは、デフォーが実際に描いている。
ゴーギャンが「早く描きすぎ」というように、ゴッホの筆は早く、ためらいがない。
なので実際にデフォーが描く必要があったのだ。
より複雑なタッチの部分は、監督のジュリアン・シュナーベルの手によるもの。
本作に飾られているゴッホの模作の多くもシュナーベルによって描かれたものだ。

シュナーベルは、バスキアなどで知られる1980年代の新表現主義の代表作家で、のちに映画監督も始め、『バスキア』『潜水服は蝶の夢を見る』などを送り出した。
そんな画家としても一流の感性が本作には込められている。

映画は最近のゴッホ研究により、ゴッホ自殺説を否定している。
ゴッホの油絵が動くタッチで作られた映画『ゴッホ 最期の手紙』もそうだった。
ゴッホは自殺した悲劇の画家ではなく、最期まで自分の芸術に向き合った。
彼の作品からそう考える方が、腑に落ちるのだろうな。

ハリウッド映画しか見ていない人には、タルかったり、きつかったりするかもの映画。
正直、僕もピンと来たわけでなく、夢うつつの中でゴッホと生活を共にしたような非現実感に包まれていた。
ただしデフォーの熱演や、各俳優の存在感、神父との問答は面白く感じた。
ゴッホは少年の罪を許し、かぶって死んだ。キリストのように。
そして、今、私たちはそのゴッホを信仰している“未来”に生きている。
  (前原利行 ★★★


2019年1月31日木曜日

ヴィクトリア女王 最期の秘密


 晩年の女王と彼女に仕えたインド人の知られざる物語



2017年/イギリス、アメリカ
監督:スティーヴン・フリアーズ(『クイーン』『あなたを抱きしめる日まで』)
出演:ジュディ・デンチ(『マリー・ゴールドホテルで会いましょう』『007』シリーズ)、アリ・ファザル(『きっと、うまくいく』)、エディ・イザード、マイケル・ガンボン(『ハリー・ポッター』シリーズ)
配給:ビターズエンド、パルコ
公開:125日よりBunkamura ル・シネマにて公開中


●ストーリー
1887年、ヴィクリトア女王即位50周年を迎え、記念金貨の贈呈役としてインドからイスラム教徒の若者アブドゥルがやってきた。アドブゥルをひと目で気に入ったヴィクトリアは、彼を自分の身近に置くように命じる。長生きして愛する人を失ってきたヴィクトリアだが、アブドゥルを“ムンシ(先生)として”心を許すようになり、身分を超えた友情が芽生え始める。しかしアブドゥルを寵愛するヴィクトリアに、周囲は反発する。

●レヴュー
どこまでが事実かはわからないが、近年になって発見されたアブドゥルの日記や、
破棄を免れたヴィクトリアのウルドゥー語の練習帳などをもとにシャラバニ・バスが
小説を書き、それを映画化したしたのが本作だ。
ヴィクトリアは18歳にして即位。以来、在位期間が63年と7ヶ月に及んだ
イギリスの全盛期を象徴する女王だ。
その時代、イギリスは選挙制度が進み、近代国家として確立したが、
植民地支配を推し進めたという面もある。
ただしドイツなどの専制国家とは異なり、その時代のイギリスは立憲君主制が進み
政策は議会が決め、イギリスは女王といえど議会の決定を追認するしかなかった。
映画を見ていると、周囲は建前的には女王を敬うが、政策などには口を出させないことがよくわかる。
当時のヨーロッパの王室とは親戚関係にあり、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア最後の皇帝ニコライ2世の妻アリックスは孫だ。

ヴィクトリアは夫アルバートを愛していたが42歳の時に死別。
その後、イギリス帝国主義を推し進めた政治家ディズレーリを偏愛したことは知られていて、
彼の死のときに葬式に出たいと言ったことは有名(当時は身分的にかなわなかった)。
孤独のまま長生きしていたヴィクトリアが、晩年に出会ったのがインド人のアブドゥルだった。
本作でも描かれているように、70歳を過ぎたおばあさんが若いイケメン男子を寵愛するのは、哀れでもあり可愛らしくもある。たとえば自分の息子、いや孫に近いぐらいのアイドルに熱狂する日本のおばさんたちと変わらない。
しかし、長く生きていれば、それぐらいの楽しみがあっても何が悪いとも言える。
老人は老人らしく、何の楽しみもなく静かにしていればいいと、周囲は思うかもしれない。
でも生きがいもなく、ただ生きるのは苦痛なのだ。

それまで抜け殻のようになっていたヴィクトリアだが、インドからやってきたアブドゥルを見て
一目で気に入り、自分の手元に置くように命じる。
アブドゥルはインド皇帝であるヴィクトリアの側近になるという野心もあったにちがいない(映画ではアブドゥルが本当は何を考えているのかをワザとはっきりとは描かない(善良だが、都合の悪いことは言わないというしたたかな面もある)。
抜け殻の老人から、恋する乙女に変身するヴィクトリアを演じるジュディ・デンチは本当に素晴らしく、その演技を見るだけでもこの映画をみる価値はある。
実際、本作を批判的な人でもデンチの演技だけは絶賛している。

実際のヴィクトリアは、短期で直情的、そして教養がなかったと言われている。
映画に描かれているように、息子のアルバート皇太子とは仲が悪く(若い頃から不品行で親を悩ませ、それが原因で夫が亡くなったとヴィクトリアは思っている)、アルバートも母親が長生きなのでいつまでも自分が国王になれないと思っている。
ヴィクトリアは夫の死後、ひとり噂されたお付きの者がいたが、その彼も亡くなっていた。
長生きするということは、ひたすら愛するものを失う日々が続く。
いいことばかりではないのだ。
そんなヴィクリトアにとって物怖じしないアドブゥルは大きな光だ。
同じイギリス人は本音と建前があり距離感を作るが、利害関係がなく屈託のないインド人には心許せるのだ。

恋する乙女になったヴィクトリアだが、途中アブドゥルに妻がいたことを知って怒る。
アブトゥルからしたら聞かれないことは言わなかっただけだが、まあズルい(笑)。
インドに帰れとなるが、思い直して「妻も呼びなさい」と命じる。
やがてヴィクトリアはアブドゥルにウルドゥー語を習い始める(当時のインドの宮廷語)。
大英帝国のトップが、支配下の国の言葉を学ぶというのは当時としては大問題だ。
逆にみんなが英語を覚えろという時代だから。
しかしヴィクトリアはそんなことにはおかまいなしだ。
ただ2人になれる時間が欲しかったのだろう。
ヴィクトリアのインド熱は高まり、インドの寸劇を王宮で演じたり、インドの王族の広間のダルバールホールを宮殿内に作らせたりもする(事実)。

当然ながら、周囲はアブドゥルを嫌い、ヴィクトリアを諌めるものも現れる。
「どうしゃったのだろう?」と。それが表面化するのは、ヴィクトリアがアブドゥルを叙勲しようとした時だ。また、アブドゥルが女王に言っていた家柄とは違うこと、「インド大反乱」についてアブドゥルがイスラム教徒よりの見解を伝えていたことがわかってくる。
そしてヴィクトリアに死期が迫ってくる。

本作は実際にあった話をもとにしているが、あくまでフィクションだ。
アブドゥルは実在の人物で、晩年のヴィクリアに仕えたが、スキャンダルを恐れた皇太子のエドワードが書類や手紙を全て焼却してしまったのでわからない。
残っているのは、アブドゥルの日記と、ヴィクトリアのウルドゥー語の練習帳だ(何が書いてあるかわからなかったので焼却を免れた)。
しかしどちらかといえば、ヴィクトリアの歳の方が近い自分としては、老人の生きがい、愛する人が皆死んでしまっての長生きなどを考えてしまった。
はたから見たら、「うちのばあちゃん、何やっているの」だが、当人にしてみたらそれぐらいの自由は欲しいのだと。

ヴィクトリアを演じるジュディ・デンチは、ヴィクトリアを映画で演じるのはこれが2回目になる。魅力的な若者アブドゥル役に抜擢されたのは、『きっと、うまくいく』に出演していたアリ・ファザル。途中で自殺してしまうイケメン役だ。監督は『クイーン』などのスティーヴン・フリアーズ。
映画としての出来はふつうだが、イギリス映画らしい丁寧さは落ち着く。
フリアーズ監督の手堅い演出は映画的なスケール感はないが、上質のテレビドラマを見たような感じで、実は僕は好きだ。
またデンチの演技は必見なので☆をプラス。
★★★☆

2018年8月6日月曜日

英国総督 最後の家


Viceroy’s House
2017年/イギリス

監督:グリンダ・チャーダ
出演:ヒュー・ボネヴィル、ジリアン・アンダーソン、マニーシュ・ダヤール、フマー・クレイシー、マイケル・ガンボン
音楽:A. R. ラフマーン
配給:キノフィルムズ/木下グループ
公開:8月11日より新宿武蔵野館ほか

公式HP:http://eikokusotoku.jp/

●ストーリー


1947年、独立が決まったインドのデリーに、最後となる新総督マウントバッテン卿とその家族がやってきた。目的は、つつがなく独立インドに主権譲渡をすること。新総督の到着に合わせ、インド人青年ジートが新しく秘書として雇われてやってきた。パンジャブ地方出身のジートは総督邸でかつて思いを寄せていた女性のアーリアと偶然再会する。アーリアはマウントバッテンの娘パメラの世話係だった。
準備を始めるマウントバッテンだが、ネルー、ガンディー、ジンナーといった指導者たちの意見はまとまらなかった。ネルーはムスリム優遇には難色を示し、ジンナーは分離してムスリム多数派の国を望んだ。ガンディーは統一のためにはジンナーに譲歩するようネルーに言うが、聞き入れられない。そんな指導者たちの対立が民衆に及び、各地で宗教対立による暴動が起こる。混乱を避けるため、マウントバッテンは分離支持に傾いていく。

●レビュー


8月15日は日本では終戦記念日だが、インドでは独立記念日となる。本作は、インド独立となった1947年8月15日にいたるまでの6ヶ月を、主権譲渡のためにやってきたマウンバッテン卿とその家族、そして総督邸で働くヒンドゥー教徒のジートとムスリムの女性との恋などを絡めて描いた歴史群像ドラマだ。

こうした歴史ドラマは大きく分けると2通りある。ひとつは歴史はあくまで背景で、そこに生きる人間の葛藤を主にしたもの。もうひとつは、歴史の動きをわかりやすく描くために、各役割を担う人々を散らした群像ドラマだ。本作は後者で、監督もコメントしているように、デビッド・リーン監督作(『アラビアのロレンス』など)を意識したようだ。ということで、人間ドラマというより、教養的な部分でいろいろとためになることが多い作品ととらえるといいかもしれない。

歴史の舞台をわかりやすくするため、本作ではさまざまな立場の人を登場させる。最後の総督となるマウントバッテンはイギリス貴族らしく、感情を抑え、自分の職務をまっとうしようとする生真面目な人間として描かれている。しかしその生真面目なゆえ、自分が老獪な政治家チャーチルに利用されているとは最後の方になるまで気付かない。現地で出迎える参謀のイズメイはチャーチル派で、マウントバッテンが知らない政府の思惑を裏で進めようとしている。
チャーチルは保守派の植民地主義者で、インドの独立には反対していた。しかし独立が避けられないとしたら、ソ連とアメリカが強大になる戦後の世界を睨み、パキスタンを分離独立させて英国の味方につけようとしていた。映画では、チャーチルはひそかに最初からジンナーにパキスタンを与えることを約束しており、ネルーやガンディーには「統一」という餌をぶら下げていただけということになっている。チャーチルは今の基準で言えば白人至上主義者であり(当時としてはふつうだったが)、ガンディーが嫌いだった。そして独立したインドがソ連と仲良くすることは避けたかったのだ。チャーチルは終戦を待たずに選挙で負けるが、マウントバッテンが赴任する頃には、自分の思惑を実行する人々を配置させていた。

インド側の代表となるネルー、ガンディー、ジンナーはそれぞれのそっくりさんが出てきて、それぞれの異なる主張をする。ガンディーは、統一インドの初代首相はジンナーにすべきと言うが、ネルーら国民会議派には受け入れがたいものだった。また、ジンナーにとっても、イスラム教徒が多数派になるのが目的だったので呑めるはずがない。しかし多数派にとっては天国でも、それが目的となる国では少数派には地獄になる。ガンディーはそのむなしさをわかっていたから、分離という結果には失望しかない。

インド側の庶民はどうだったか。それを観客に理解できるよう、映画ではドラマ部分の実質上の主人公であるヒンドゥー教徒のジートという青年を登場させている。彼の住むパンジャーブでは、各教徒が混在して住んでいた。ジートを総督邸に誘った友人はシク教だし、ジートが思いを寄せる女性はムスリムだ。しかし異教徒間の恋愛は、分離独立という社会のうねりの前には芥子粒のようなものだ。また、総督邸のキッチンでも、分離独立問題は従業員たちの争いを生むようになる。

分離独立が決まると、それまでのインド政府が持っていた資産が、インド8、パキスタン2の割合ですべて均等に分割されることになる。映画でも、百科事典を途中で分けるという馬鹿げたシーンがあるが、博物館の収蔵品もそれに沿って分けられたという。「断食するブッダ」像が、インドにないのはそのためらしい。

分離独立すると、それぞれで少数派にならないように、大量の住民の移動が起きた。その過程で略奪と虐殺が起き、それがさらに避難民の数を増やした。映画でもその模様が描写されるが、とりわけ地方が二分されたパンジャブ地方での被害が大きかったようだ。この住民同士による無差別大虐殺と過酷な移動で、双方合わせて100万人近くが死んだという。

ラストはちよっと甘いかもしれないが、それは観客のサービス。とはいえ、本作はインド現代史を知るにはいいテキストとなる映画だろう。イギリス映画らしく、派手さを抑えてきっちり作っている。これがアメリカ映画だと、大爆発や銃撃戦が盛り込まれるだろうし。★★★☆

●関連情報

監督は『ベッカムに恋して』などのグリンダ・チャーダ。彼女もまた自身がインド系で、祖母の代にパンジャブからきたシク教徒。夫で、脚本のポール・マエダ・バージェスは名前からわかるように日系アメリカ人。

マウントバッテン卿の妻役には、なつかしやXファイルのスカリーさん。

プロデューサーのディーパック・ナヤールも、名前からしてインド系だが、これまでに手がけた作品は『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』『スラム・ドッグ$ミリオネア』『食べって、祈って、恋をして』『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』『ライフ・オブ・パイ』『LION/ライオン』など、異文化との出会いやインドをテーマにしたものが多い。

総督邸のロケが行われたのは、ジョードプルの宮殿ホテル、ウメイドバワンパレス。

2018年3月22日木曜日

大英博物館 プレゼンツ 北斎

モネ、ピカソを魅了した江戸時代の天才絵師の魅力を紐解くドキュメンタリー


British Museum presents: Hokusai

2016年/イギリス
監督:パトリシア・ウィートレイ
協力:大英博物館
ナレーション:アンディー・サーキス
出演:デイヴィット・ホックニー、ティム・クラーク他
配給:東北新社
配給協力:DBI INC
上映時間:87分
公開:2018年3月24日(土)、YEBISU GARDEN CINEMA ほか全国順次公開

●ストーリー 
 2017年の5月から8月にかけて、大英博物館で”Hokusai : Beyond the Great Wave”と題する展覧会が開催された。本作は、葛飾北斎をイギリスで初めて本格的に取り上げたその展覧会をフィーチャーし、展覧会の裏舞台と通して、葛飾北斎の生涯や作品に迫るドキュメンタリーである。

●レビュー 
 大英博物館で開催された北斎展のタイトルは”Hokusai : Beyond the Great Wave「The Great Wave」は大きな浪が砕ける先に富士山が描かれた代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のことである。その斬新な構図、圧倒的な迫力、繊細で緻密は木版の色と摺りから、ひときわ人目を惹く作品だ。かつて、印象派をはじめ多くの芸術家に多大な影響を与え、手本ともなった北斎の作品は、その後も多くの作家や研究者を魅了し続けている。

 本作品は「北斎」を多角的に取り上げていて興味深い。北斎は波乱の人生の中で、江戸の町に生きる人々の姿を題材とし、富士山を通して自然の雄大さを描き、最晩年にも圧巻の筆で美しい肉筆画を残している。最新の映像技術よって版画制作の工程や作品の隅々まで鮮明に見ることができるのも感動的で、今まで目にする機会の少なかった肉筆画の作品に触れられることも嬉しい。還暦以降の30年に焦点を当て、90歳を超えても意欲的に絵筆を持ち続けた絵師北斎の生涯を辿りながら、北斎の作品が紐解かれていく点も見所になっている。本作品を通して、北斎が生み出した構成力やデザイン力が、過去芸術作品から現代の漫画に至るまで影響を与え続けているということを実感できるだろう。

 そしてもう一つ感じたのは、驚きを持って北斎作品を見てきた世界の目に対して、私たち日本人が北斎作品から得る感覚は少し違うのではないかということだった。私たちの感動は、ごく自然と湧き上がり、そして印象深く心に刻まれていくようなような気がする。世界に誇る和紙、圧をかけずに「摺る」木版画、美しく雄大な富士山、折々に表情を変える日本の四季の風景、江戸の人々暮らし・・、私たちが日本という国の伝統や文化を背景に持っているからなのだろう。イギリスの研究者のインタビュー聞き、本作の映像を見ながら、日本人として見る「北斎」にも気づかされたように思う。★★★★)加賀美まき

2018年1月28日日曜日

ジャコメッティ 最後の肖像


Final Portrait
2017年/イギリス


監督:スタンリー・トゥッチ
出演:ジェフリー・ラッシュ、アーミー・ハマー、トニー・シャループ、シルヴィー・テスチュー
配給:キノフィルムズ/木下グループ
公開:201818日よりTOHOシネマズ シャンテ他にて公開中

日本でも展覧会が好評だった、細長い人の彫刻で知られるジャコメッティ。
舞台は1964年、すでに有名になって個展も開かれている晩年のジャコメッティ。
その彼に肖像画のモデルを依頼された
主人公ロード(アメリカ人作家)が、「2日ですむから」
と言われてアトリエに行くが、なかなか作品が完成せず18日間も
かかってしまう(映画はロードの回想録を基にした実話)。
そのため物語の大半はアトリエが舞台で、
そこに妻のアネット、ジャコメッティの弟のディエゴ、
そしてジャコメッティのミューズ的存在の娼婦カロリーヌ
が現れては消え、ジャコメッティはなかなか創作に集中できない。
モデルは椅子に座ってじっとしているだけだから、そうした人間模様を観察する。

意外だったは、成功者なのに、ジャコメッティの家もアトリエもみすぼらしいこと。
お金には無頓着なのかケチなのか、必要ないものは欲しくないのか。
生活も質素といえば質素。
かといって高尚な職人気質ってわけでもない。まあ、偏屈といえば偏屈だ。
観客は凡人側である主人公の気分だから、最初は天才であるジャコメッティに気を使い、

早く完成してくれるように注意を払うが、
そのうち「コイツ、本当に完成させる気があるんだろうか」と不安になってくる。

モノづくりが難しいのは始めと終わりで、特に仕事の依頼でもなく始めたものは、
“完成しない作品”になりがちだ。
自分で締め切りが切れないからだ。人の創作風景を見るのはなかなか面白い。
映画は低予算の小作品で舞台にもできそうだ。
地味といえば地味な作品だが、きちんと作ってあるので創作好きな人には、

興味を持って見れるはず。
「最後の肖像」というのは、彼が描いた最後の肖像画だから。
ジャコメッティにジェフリー・ラッシュ。
海賊バルボッサの人ね。主人公のモデルにアーミー・ハマー。
監督は、俳優のスタンリー・トゥッチ。

2018年1月22日月曜日

否定と肯定

Denial
ホロコーストはなかったか? 実話の裁判の映画化。


監督 ミック・ジャクソン


出演 レイチェル・ワイズ、ティモシー・スポール、トム・ウィルキンソン
12/8から公開中
●ストーリー
アメリカの歴史学者デボラ・E・リップシュタットの講演中、
ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アービングが現れ、
「嘘を言っている」と絡んでくる。
リップシュタットがその著作物で、「ホロコーストはなかった」と
主張するアービングを批判していたからだ。
相手にしないリップシュタットに対しアービングは、
今度はイギリスで彼女と本の版元であるペンギンブックスを名誉毀損で訴える。
イギリスに渡り弁護士団と打ち合わせをするリップシュタットだが、
名誉毀損に関しては、逆に訴えられた側が相手の間違いを証明しなければならないという、英米の裁判の違いに驚く。
そして世間が注目する裁判が始まった。。

●レビュー
これは1996年に実際に起きた 
「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」
訴訟と裁判の映画化だ。
興味ある人は、この事件はwikiにも載っているので、読んでみるといい。
当時、こんな裁判があったか記憶にないが、欧米では話題になったらしい。
何せ現代のイギリスの王立裁判所で、ホロコーストはあったかないかの証明をし、裁判で決着をつけるのだから。
まあ、「〜はなかった」という否定論者は、昔から世界中にいる。
これは、まだ歴史的な検証が済んでいないものは別として、
もう定説となっているものを、歴史資料から自分に
都合がいいところだけ抜粋して、自分の主義主張に合わせているだけだ

本作の主人公である歴史学者リップシュタットは、
そういう輩をそもそも“学者”として認めておらず、
アービングが仕掛けてくる“討論”にも乗らない。
アービングにすれば、結果ではなく、きちんとした学者と討論できたことで、
すでに彼の“勝ち”になってしまうからだ。
裁判も勝ち負けより、世間に注目されれば
「もしかして彼の言うことは本当かも」という人が必ず出てくる。
今まで無名の「トンデモ学者」だったのが、「テレビに出た有名人」になった時点で、
その試みは成功しているのだ。

「ホロコーストはなかった」何て信じる人はいるのか?
と思うだろうが、いる。
ヒトラーをするネオナチだけでなく、
日本でも1995年に「マルコポーロ事件」があった
(「ガス室はなかった」とする記事を掲載し、廃刊に追い込まれた)。
問題は、トンデモ歴史論を展開する人たちが、「表現の自由」を盾に使うことだ。
それを盾に取られてしまうと、識者たちの反論の筆が鈍くなることを知っているからだ。
映画を見ていて思うのは、「表現の自由」は大事だが、

それを野放しにすると、デマカセ情報や無責任の中傷情報も広がり
鵜呑みにした人たちが偏見や憎悪を持ってしまう危険性があるということ。
現に今のネット社会がそうだろう。

(ヤフコメでも、ヘイト発言は表現の自由と勘違いしている輩が多い)

あとこの映画で勉強になったのは、英米の裁判のシステムの違い。
「法廷もの」は映画では一つのジャンルにもなっているが、

今まで作られてきたのはアメリカ映画がほとんど。
本作では、アメリカ人がイギリスの法廷に出るということで、

日本人にもわかりやすくイギリスの裁判のシステムを解説してくれる。
で、難しいのは、もしアービングが本当に

「ホロコーストはなかった」と信じきっていた場合、
彼は嘘をついていないので「中傷にはならない」のではないかという
問題も出てくること。
なので、「知ってて、都合のいいところだけ抜き出した」と、
訴えられた側が証明しなきゃならないのだ。
うーん、面倒。

監督は懐かしや『ボディガード』のミック・ジャクソン。
最近見ないと思っていたら、テレビに戻り、
ドキュメンタリーの演出をしていたらしい。
なので法廷劇だが、きちんと最後はエンタメ映画としても
盛り上がれるような演出もされている。
★★★☆

2017年3月25日土曜日

汚れたミルク あるセールスマンの告発

Tigers
 


2014年
監督:ダニス・タノヴィッチ
出演:イムラン・ハシュミ、ギータンジャリ、ダニー・ヒューストン、カーリド・アブダッラー
配給:ビターズエンド
公開:3月4日より新宿シネマカリテほかにて上映中
公式HP
www.bitters.co.jp/tanovic/milk.html

今や、完全母乳で赤ちゃんを育てる家庭はそう多くはなく、
たいていの家庭なら粉ミルクを子供に飲ませた経験があるだろう。
日本ではだから「粉ミルク」が問題になるとは、誰も思わない。
しかし国や地域が変わればそうはいかない。
もし粉ミルクを溶かす水が、十分に殺菌されていない、
汚染されている水だったら?
生まれたばかりの赤ちゃんは、
まず“母乳”で免疫力をつけるといわれている。
そしてまだ免疫力があまりついていない赤ちゃんが、
雑菌で汚染された水で溶かされた粉ミルクで育てられたら?

結婚したばかりの薬の営業マンのアヤンは、
幸運にも多国籍企業のラスタ社への転職に成功する。
ラスタ社が製造する粉ミルクの営業担当になったアヤンは、
上司からの豊富な資金を利用して、
決定権のある医師や薬局にうまく取り入っていく。
1997年、順風満帆だったアヤンだが、粉ミルクの不適切な使用で
多くの乳児が命を落としていることを知り、ショックを受ける。
自分が良かれと思って売っていた粉ミルクによって、
結果的に子供達が死んでいたのだ。
アヤンは仕事を辞め、企業を告発しようとするが、
そこには多くの障害があった…。

この映画の監督は、ボスニアの内戦を描いた
『ノーマンズ・ランド』でアカデミー外国語映画賞を受賞した、
ボスニア出身のダニス・タノヴィッチ
そんな彼が本作で選んだ題材の場所は、
ヨーロッパではなくパキスタンで実際に起きた事件だった。

まず、誤解なきよう。粉ミルク自体が、
赤ちゃんに害を与えるものではない。
しかし問題は、水道をひねれば消毒された水が飲めるという
先進国では当たり前のことが、
途上国ではそうではないということを知りつつ、
感染のリスクを周知させることなく販売したということだ。
主人公である営業熱心なアヤンは、「そういうものだ」と
教えられ、病院や薬局で力ある人たちに付け届けを送る。
今は知らないが、日本でも前はまったく同じことをやっていた。
自分が扱っている薬を、
その薬局で取り扱ってもらえれば利益が大きい。
なのでとにかく足で通って、情やあるいは“贈り物”で、
その商品を扱ってもらうようにしていた。
ここでは医師がすすめる粉ミルクなので、
当然出産後の母親はそれを購入して使うようになる。
しかし加熱、沸騰した水ではなく、
またミネラルウォーターのボトル水でもない。
パキスタンに限らないが、
途上国の上水は飲料に適していないところがある。
また、地域によっては井戸水を使っているところもあるだろう。
大人が飲んでも、まあ大丈夫程度の水でも、赤ちゃんは違う

もちろん、その結果、赤ちゃんが死んでも
粉ミルク自体のせいではない。
ただ問題は、そうした事件が起こっているのを知りながら、
企業が何ら注意喚起をもとめることもせず、またそれを放置して製品を売り続けたこと
だ。
そして、それが裁判沙汰になっても、
「下の人間が勝手にやったことで、組織ぐるみではない」と、
責任を回避する。
しかしそれは企業倫理に照らしてどうなのか。
法さえ犯していなければ、子供が死のうが
それは“自己責任”として「関係ない」のか。

この映画にひねりがあるのは、この大企業(ネスレ)から、
名誉毀損で訴えられる可能性があり、
裁判でも負ける可能性があるので、
ドキュメンタリーや再現ドラマというわけでなく、
この事件を取材してテレビ番組を作ろうとするスタッフが、
主人公であるアヤンに話を聞くという体をとっている。
そこでアヤンの証言自体の真偽が問われることがあり、
企業と食い違いがあって
証明できないものは、そのまま見せている。
判断は観客に任せているのだ。

ドキュメンタリーの製作会議に、法的に問題ないか弁護士がつくのも、ちょっと驚いた。

当然ながら本作はパキスタンで撮影できず
(大企業と政府はつながっているので)、インドで撮影
製作にインド資本も入っており、インド人のイムラン・ハシュミが主人公を演じている。
★★★

2017年1月6日金曜日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場


Eye in the Sky

ドローンによるテロリスト攻撃作戦。しかしその場に、関係ない民間人が居合わせたら?


 
2015

監督:ギャヴィン・フッド(『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』『ツォツィ』)
出演:ヘレン・ミレン(『クイーン』)、アーロン・ポール(『ブレイキング・バッド』)、アラン・リックマン(『ハリー・ポッター』シリーズ)

配給:ファントム・フィルム
公開:1223日よりTOHOシネマズシャンテにて公開中
公式HPeyesky.jp/


●ストーリー

アフリカのナイロビの上空6000メートルを飛ぶ、一機の無人ドローンがある映像を捉えた。それは国際的なテロリストが、一軒の家に集結する姿だった。彼らを追うイギリス軍諜報部のキャサリン大佐は、上官のベンソン中将と協力して逮捕を目指すが、監視カメラの映像は大規模な自爆テロの準備を映し出した。逮捕による隊員の損害や逃亡を防ぐため、作戦はドローン攻撃による殺害に変更。その命令によりラスベガス郊外の空軍基地では、ミサイルの発射準備に入る。しかし、カメラはドローンの殺傷圏内にいる、幼いパン売りの少女を映し出した。

●レヴュー

宣伝では典型的なB級アクション映画のようなルックで損をしているが、なかなかの拾い物、いや、個人的にはけっこうツボにはまった哲学的な命題を含んだサスペンス映画で、機会があったらぜひみなさんにも見て、考えてほしい映画だ。

哲学の世界では有名な「トロッコ問題」をご存知だろうか?
これは大学の講義でもよく使われる有名な話でバリエーションはいろいろあるが、基本となるのはこんな感じ。線路を走っているトロッコが制御不能になり、このまま放置しておけば前方で作業中の5人が死んでしまう。しかしあなたの前にある分岐器を動かせば、別の線路に引き込むことができる。ただし、そこでもひとりの人が作業中だ。つまり、5人を救うために1人を殺しても良いかということであり、法的な責任は問われないのが前提となる。功利主義的な立場から言えば、5人を救うのが正しい。しかし義務論から言えば否となるというもの。これにはバリエーションがある。たとえば、この問題で迷わず分岐の切り替えをした人でも、以下の問題はどうだろう。溺れている5人を助けるためにあなたがボートで向かっている途中、溺れている別の一人を発見する。その人を救うと時間がかかり、五人は死ぬことになる。それでもあなたは助けるか、見殺しにするか。

お気付きのように、これには誰も納得がいく回答がない。人は頭ではわかっていても、誰かを助けるために誰かを見殺しにはしたくないからだ。この映画では「自爆テロが起きれば数十人が死ぬ。また部隊の突入でも複数の兵士が死ぬ。ただしドローン攻撃をすれば“最小の被害”だけですむ」という、功利主義から言えば正しい選択が目の前にある。しかし、それは倫理的には正しい選択なのだろうか? 攻撃により、関係のない少女が死ぬかもしれない。多数を救うために、少女は死んでもいいのか。

オバマ政権では、兵士による直接攻撃ではなく、ドローンによる攻撃が推奨されている。現在では兵士のPSTD問題などが国内世論で大きく取り上げ、大々的に生身の兵士を戦闘に派遣しにくい。兵士の死傷者数を減らしたいこともあり、ドローン攻撃を重視しているのだが、あるニュースによればアフガニスタンでドローンにより殺害された200人のうち標的はわずか35人で、残りは巻き添えを食った民間人だったという。

ただし、本作が良くできているのは、現実の作戦に対する批判ではなく、「テロリスト攻撃」という事件を通して、上記の「トロッコ問題」という普遍的な哲学上の問題を私たちに見せてくれる点だ。そのため、この作戦に関わるどの立場の人間も納得がいくように描かれ、映画によくありがちな悪人や思慮の浅い人は出てこない。それぞれの立場で考え、意見を述べているので、観客もだんだんどうしていいかわからなくなる。それが狙いなのだ。「もし、少女を助けるためにテロリストを逃して、その後、数十人が死んだら?」、あるいは「少女が助かる確率が何%なら実行していいのか」などと考えてしまう。

イギリス映画らしい重厚な作りの本作だが、それはこの重いテーマにふさわしい。どのような選択をしても、誰かが傷つくようなことにならない世界を目指すのが、本当は一番いいのだろう。ヘビーな一本だ。
★★★☆

●関連情報
・最近では『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』などの娯楽映画が多い南アフリカ出身のギャヴィン・フッド監督だが、世界的なデビューは社会問題を扱った『ツォツィ』だ。
・本作は、アラン・リックマンの遺作のひとつになった。
・トロッコ問題についてはwikiを参照にしました

2016年10月19日水曜日

奇蹟がくれた数式


The Man Who Knew Infinity

 20世紀初頭、若きインドの天才数学者が海を渡り、英国の教授と数式の謎に挑む

 

2016年/イギリス
監督:マシュー・ブラウン
出演:デヴ・パテル(『スラムドッグ$ミリオネア』『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』)、ジェレミー・アイアンズ(『運命の逆転』『ミッション』)、トビー・ジョーンズ (『裏切りのサーカス』)
配給:KADOKAWA
公開:1022日より角川シネマ有楽町ほか

 ●ストーリー 

1914年、インドのマドラスで働く青年ラマヌジャンが出した手紙が、イギリスのケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教授を務めるハーディの元に届いた。その手紙に書かれていた大きな数学的発見を目にしたハーディは、ラマヌジャンの才能を見抜き、彼をケンブリッジへと呼び寄せる。ほぼ独学で数学を学んだラマヌジャンだが、ハーディは大きな才能を秘めているのを見抜いたのだ。妻と母をインドに残し、単身ケンブリッジに向かったラマヌジャンだが、“直感”に基づく彼の数式は、論理的な証明をすることができなかった。ハーディはラマヌジャンに数式の証明を促すが、なかなかそれを説明することはできない。ラマヌジャンは、次第に孤独に追い詰められていく。

●レヴュー 

「数学者」というと最も映画になりにくい題材のように思えるが、数学者ジョン・ナッシュを描いた『ピューティフル・マインド』(アカデミー作品賞)や、数学の才能を持った青年を描いた『グッド・ウィル・ハンティング』などもあるし、数学ではないがホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』などもあった。また、悲劇の数学者チューリングを描いた『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』も面白かった。

本作はそうした流れを受けつつ、インド以外では知られていない、夭折の数学者ラマヌジャンを取り上げたところが面白い。僕も10年前に、担当していた某ガイドブックのコラムで取り上げるまでは彼の存在を知らなかった。南インドのクンバーコナムという町についての原稿を書いていた時に、ラマヌジャンの名が出てきたのだ。

彼の生い立ちや業績は、各自ググっていただくとして、映画の多くを占めるのは彼のイギリスでの留学時代で、彼と指導者であるハーディ教授との師弟関係を中心に語られる。ラマヌジャンはインドの敬虔なバラモンの家庭に生まれた。しかし母親と結婚したばかりの妻を養うため、研究に勤しむ事もままならずに、日々働くしかなかった。彼を研究に駆り立てたのは何だったのか。

私は数学にはとんと疎く、数式を見てもさっぱりわからないが、数学をしている人に聞くと感性は大事だという。映画では彼の数学的発見の理由を“直感”ともしているが、ラマヌジャンはそれを“女神の導き”とも表現していた。つまり自分の直感は、神が与えてくれたという事だ。私たちも日々暮らしていて、理由なしに直感で感じてしまう事がままある。もちろん、数学は印象ではないが、数字に驚くほど精通していた彼にとって、すべての数字には意味があって存在しているものなのだ。意味のないものはない。

しかし彼の指導者であり、もう一人の主人公であるハーディには、それが理解できない。ハーディは無神論者であるだけでなく、人の悩みや様子に気づかない、“ニブい”男なのだ。しかし彼も学者で、真理を知りたい気持ちはラヌマジャンとなんら変わる事がない。そんなある意味イギリス的な、世渡り下手な初老の教授を演じているのは『ミッション』などの名優ジェレミー・アイアンズ。最近、力が抜けてきて、いい感じになってきているが、ここでもそんな役をうまく演じている。

映画は、そんな年齢も国籍も考え方も違う2人が、人間として向き合える関係を築くまでの物語。なので、スリリングな展開やミステリー風味はない。20世紀初頭のケンブリッジ大学の雰囲気も興味深い。誠実な造りだが、無難な展開や着地点なので、あまり印象に残らない出来になってしまったのも確か。悪くはないが上品にまとめすぎたかな。
★★★前原利行

2016年3月30日水曜日

さざなみ

結婚生活45年の夫婦。ある知らせをきっかけに、揺れ動いていくふたりの感情を描く。

45 YEARS

2015年/イギリス
監督:アンドリュー・ヘイ
原作:デヴィット・コンスタンティン”In Another Countory”
出演:シャーロット・ランプリング。トム・コートネイ
配給:彩プロ
上映時間:95分
公開:2016年4月9日(土)、シネスイッチ・銀座ほか全国順次ロードショーHP:http://www.sazanami.ayapro.ne.jp

●ストーリー
土曜日に結婚45周年の祝賀パーティーを控えるジェフ(トム・コートネイ)とケイト(シャーロット・ランプリング)。子供はいないが仕事を引退し、ささやかな生活を送っていた。その週の始めの月曜日、スイスからジェフ宛に一通の手紙が届く。50年以上前に、氷河のクレパスに落ちて行方不明になった恋人のカチャが、溶けた氷の中から当時のままの姿で発見された、身元を確認に来て欲しいというものだった。思わず「僕のカチャ」と口にしたジェフ。その時から夫婦の関係がきしみ始める..

●レビュー
 この物語では、長年連れ添った夫婦の穏やかな関係が、一通の手紙とそれを読んだ夫の不用意な一言で波立ち、45年培った関係が次第に揺らいでいく様が描かれいる。行方不明になった元恋人が氷河の中から発見されたという知らせを受けて、夫が思わず「僕のカチャ」と言ってしまったその日から、夫は過去を振り返り始め、妻の心はざわめき立っていくのである。

 元恋人「カチャ」が二人の間に入り込んできた日から、結婚45周年を祝うパティーまでの6日間の二人の様子を物語は追っていく。男女の恋愛や結婚といった観念の違いが巧みに表現され、また、夫婦の絆の脆さ危うさを静かに刻んでいくあたりが心憎い。忘れていたはずの過去の恋愛の記憶を呼び起こし、元恋人の姿を追いはじめる夫。理性的であろうをすればするほど、日増しに大きくなる嫉妬心や夫への不信感を拭い去ることがでない妻。1日1日さまざまな伏線が織り込まれ、二人の心情の変化に目が離せない。おそらく、どこにどう共感するか(しないか)は男女で変わってくるのだと思う。

 ラストは45周年を祝うパーティーの席。夫は感動的なスピーチを妻へ贈る。しかし、この物語を締めくくる妻の最後の表情に息を呑むだろう。理知的な女性でありながら、不信感を募らせていく妻を演じたのはシャーロット・ランプリング。美しさと虚無的な佇まいを併せ持つ彼女にははまり役だ。台詞、表情、動きのひとつひとつから妻の仔細な感情を浮き上がらせるのは見事というより他はない。

舞台はイギリスの地方都市で、二人が暮らす郊外には田舎風景が広がっていて美しい。風が吹き抜ける運河や草原に佇んで妻が思いを巡らせるシーンは、いかにもイギリスらしい情景で、心理描写とよくマッチしていて印象的だ。
★★★★

2015年7月1日水曜日

ルック・オブ・サイレンス


The Look of Silence

兄を虐殺で殺された青年が、加害者に初めて沈黙から声をあげる。





2014年/デンマーク、インドネシア、ノルウェー、フィンランド、イギリス


監督:ジョシュア・オッペンハイマー(『アクト・オブ・キリング』)
配給:トランスフォーマー
公開:74日よりシアターイメージフォーラム

●ストーリー


インドネシアのスマトラ島メダン近郊。老いた両親と暮らす青年アディは、1965年の虐殺で兄が殺された後に生まれた。母親は半世紀前に殺された息子への想いを胸に封じ込め、加害者と同じ村に暮らしていた。父親は認知症をわずらい、息子の記憶さえない。オッペンハイマー監督が撮影した加害者たちのインタビューを見たアディは、彼らがまったく罪の意識を感じないことに衝撃を受ける。そして加害者たちに会って、罪を認めて欲しいと訴えた。そこで眼鏡技師として働くアディが、無料の視力検査をすることで加害者たちに近づき、質問を投げかけ、その模様をカメラに収めることになった。

●レヴュー 

当初オッペンハイマー監督は、1965年に起きた100万人近い大虐殺の被害者側のインタビューを集め、それをドキュメンタリーにしようとしていた。しかし当局や民兵の度重なる妨害に遭い、撮影の中止を余儀なくされる。ところがその過程で、妨害していた側に取材対象を変えてみると、途端に彼らが協力的になることがわかり、加害者側を撮影して『アクト・オブ・キリング』を完成させた。この作品は各国で高い評価を受け、2014年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。その間、2012年の『アクト・オブ・キリング』の撮影中、被害者の弟であるアディの提案を受け、本作のメインである、アディと加害者の対話の撮影が行われる。『アクト・オブ・キリング』が公開されたら、オッペンハイマー監督はインドネシアには戻ることができないだろう。これが最後のチャンスだった。

『アクト・オブ・キリング』は、衝撃的な作品だった。迷信に左右される未開の社会ならともかく、「ふつうの文明社会にいる人たちが身近な人たちを虐殺できるのか」という問いの答えを見せてくれたからだ。もちろん、アイヒマン裁判が教えてくれたように、薄々はわかっていた。が、特殊な社会状況が人をそうさせるのではないかという、どこに「人のせいではなく、社会が悪い」的な甘い考えが自分にもあった。しかしこのドキュメンタリーを見て、それがまちがいであることはわかった。人は隣の人も、理由さえあれば簡単に殺すことができると。それはどんな社会でもあまり変わらない。「虐殺のメカニズム」を、冷静に、しかもわかりやすく見せてくれたのだ。インドネシアの場合、それが「共産主義」「中国系」だったが、それは別に他のものに簡単に置き換えがきく。普遍的なものなのだ。

『アクト・オブ・キリング』が、加害者側に自らの行為を語らせ、演じさせるという発想の転換の、実にユニークなドキュメンタリーだったのに対し、この『ルック・オブ・サイレンス』は被害者側の支店を入れる、オーソドックスな作品かもしれない。ただ、被害者側が淡々と訴えるという内容であれば、それは正論で、映画の中で善悪は完結してしまうだろう。そこで本作では被害者側が声を大きくあげるのではなく、むしろ「沈黙」を通さねばならなかったことについて考える。自分の息子を殺した人間と同じ村に住み続ける辛さ。沈黙の50年を生きた母親が口を開く。今まで家族以外、誰にもその無念を語ることはなかったろう。

カメラの前で殺害を自慢するものもいる。彼らは当然「善い行いをした」と思っているからだ。通常の神経なら、同じ村の、知り合いの息子を殺したことを、笑いながら話せないだろう。それに彼らは犯罪を生業としている訳ではない。政府の役職に就いたり、政治家になったり、教員になったりするものもいた。人を殺すことで一番重要なのは、自分が罪の意識を感じないことだ。それはたとえば極悪非道な事件が起きた時に、犯人が死刑になってもほとんどの人々の心は痛まない。それは、それだけのことをしたからという、納得できる理由があるからだ。この虐殺の加害者たちも、自分を正当化できる“理由づけ”がそれぞれに持っている。「正義のために」「上からの命令で」「宗教に反する」などだ。

殺害の様子を川のほとりで再現するいい歳のおじいさんたち。ニコニコしながら、「なかなか死ななくてね。何度も刺して、ペニスも切ったよ」と言っている恐ろしさ。犠牲者の血を飲むと狂わないですむという迷信から、血を飲んでいた殺害者の老人も怖い。いや、そこまででなくても、アディの母の弟が収容所で看守として働いており、結果的に見殺しにしていたことを姉に50年も黙っていたことも怖い。

このドキュメンタリーがすごいのは、そうした発言をうまく引き出していることだ。アディが加害者の老人のところに行って最初は目の視力検査を何気なくする。それから「あのころは大変だったでしょう」みたいに最初はさりげなく話題を切り出す。アディの年齢からして、当時のことは知らないはずということもあり、すっかり油断した老人たちは、「あやー、よく殺したよ。殺しても殺しても数が多くてさー」みたいに自慢気に話し出す。そこでアディは、「ところで、私の兄も殺されたんですよ。あなたたちに」と言う。その瞬間の動揺をカメラは見逃さない。すっかり不意打ちを食らった彼らは、「いゃ、命令に従っただけだよ」と言い訳をするものもいるが、「お前は俺を責めに来たのか」と怒り出すものもいる。このまるで“どっきりカメラ”のような展開が実にスリリングだ。人はなかなか人前では本性を現さない。カメラが回っていればなおさらだ。そのため、このような仕掛けが必要なのだろう。「虐殺を自慢している男も、本当は心に疾しいものを感じているのではないか」とアディは信じて始めるが、そこまで自分のしたことを冷静に見ている加害者はほとんどいない。

見ていて強く感じるのは、殴ったほうは殴ったことを忘れて、それすら思い出にできても、殴られた方は一生忘れることも思い出にすることもできないことだ。その痛みは過去のものではなく、今もリアルに感じられる痛みなのだから。
(★★★☆)

●関連情報

・前作『アクト・オブ・キリング』も必見。ぜひ併せて見たい。