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2020年3月5日木曜日

ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像


オークションにかけられた幻の名画。老いた画商が人生最後の勝負に挑む


2018
監督:クラウス・ハロ
出演:ヘイッキ・ノウシアイネン、ピルヨ・ロンカ、アモス・ブロテルス
配給:アルバトロス・フィルム、クロックワークス
公開:228日よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか
公式HP: lastdeal-movie.com/
●ストーリー
長年仕事を優先し、家族をおろそかにしてきた老画商のオラヴィ。ヘルシンキで小さなギャラリーを営む彼の元に、音信不通だった娘から連絡が入る。問題を起こし、職業体験の引受先がない孫息子のオットーを預かってくれというのだ。その一方、オラヴィはオークションに出品されていたある男の肖像画に心を奪われていた。署名がないために安い価格がついていたその絵だが、オラヴィは妙にひっかかるものを感じたのだ。オットーと共に作者を探し始めたオラヴィは、その絵がロシア写実主義の巨匠イリヤ・レーピンの作ではないかと推測する。

●レビュー
イリヤ・レーピンを知っているだろうか。
世界史や美術史の本にはたいてい「ヴォルガの舟曳き」が掲載されるが、個人的には「イワン雷帝と息子イワン」が印象的だ。伝説を取り入れたこの絵では、抗議しに来た息子をイワンが癇癪を起こして杖で殴り殺してしまった直後を描いている。自分がしでかしたことに恐れおののく老人の恐怖の表情が、夜に見たらトラウマになりそうなぐらい怖い(ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」に匹敵する)。

イリヤ・レーピンはロシアの巨匠だが、その作品の多くがロシア国内にあるため、世界的にはあまり知られていなかった。晩年はサンクトペテルブルク郊外に住んでいたが、その地がフィンランドの独立とともに編入されると、高齢であることを口実に帰国することなく1930年に没した。やがてソ連=フィンランド戦争が起き、レーピンの住んだ地はソ連に編入される。

そのような経緯があるので、本作のような「幻の名画」の話も俄然現実味を帯びてくる。レーピンの晩年に描かれた絵がフィンランド内に残っていても不思議はない。それではなぜ署名がないのか。その謎を探る部分はミステリー仕立て、そしてそれを周囲に知られることなく落札する下りはサスペンスになっている。ただしそれはストーリーを進行させるためのもので、強く印象に残るのは、他人に対して愛情が薄かった仕事人間が年老いてようやく家族の大事さに気づくドラマ部分だ。

主人公のオラヴィは日本人でもいそうなキャラクターだ。仕事熱心といえば聞こえはいいが、自分のことにしか関心がないとも言える。不実ではないが、相手のことに関心がない。それは家族に対しても同様だ。
面倒なことを考えるより、仕事をしている方が楽と人生を過ごしてきた感がある。
そんな男が、この肖像画の購入を通して、今まで気がつかなかったものに気づくが、人生は残り少なかった。観ていてなんとなく、自分の父親とオーバーラップしてしまった。派手さ皆無の小品だが、こうした地味なドラマもなかなか良い。★★★前原利行

2019年12月26日木曜日

ヘヴィ・トリップ 俺たち崖っぷち北欧メタル!


「トナカイ以外、何にもねぇ〜」。
田舎の町で活動するメタルバンドが、フェスを目指して一念発起


2018
監督:ユーソ・ラーティオ、ユッカ・ヴィドゥグレン
出演:ヨハンネス・ホロバイネン、ミンカ・クーストネン、ヴィッレ・ティーホネン
配給:Space Shower Films
公開:1227日よりシネマート新宿、池袋シネマ・ロサほかにて

●ストーリー
フィンランド北部の何もない田舎町で退屈な日々を送る25歳のトゥロは、
 4人組ヘヴィメタルバンドのボーカルだ。
とは言っても、バンドは結成以来12年間、一度もライブをしたことがなく、
またオリジナル曲も作ったことがないコピーバンドだ。
そんな彼らが一念発起してオリジナルを作り、
さらにノルウェーのメタルフェスの主催者にたまたまデモテープを渡すチャンスに恵まれた。
ところがそれが彼らの住む町では、バンドがフェスに出演が決定したことに
なってしまい、トゥロは後に引けなくなってしまう。
地元のライブハウスでの初ライブ、トゥロは緊張のあまり大ゲロを吐いてしまい大失敗。
また、出演依頼もなく、バンドは解散の危機に。
しかし、彼らは試練を乗り越え、勝手にフェスを目指してノルウェーを目指す。

●レビュー
80年代、日本でもヘビメタブームがあったが、今やマニアのための音楽という感がある。
しかし北欧では、今でも“ヘヴィメタル”は人気で、とりわけフィランドではメタル人口が多いらしい。
どのくらい多いかというと、日本から九州を引いたぐらいの面積の国に北海道ぐらいの人口
そこに3000のメタルバンドがいるという。

とはいえ映画の舞台となるのは、都会ではなく北のはずれの田舎の小さな村だ。
バンドメンバーはみなメタルらしく長髪に革ジャンと見てくれは良い。
ただし主人公はその格好で自転車を漕いで通勤しているし、
リハスタジオは、ギタリストの実家であるトナカイ屠殺工場の1だ。
道を歩けばヤンキーに「ほーも!」と馬鹿にされる始末
恋心を抱いている花屋の幼馴染にも打ち明けることはできず、日々、老人ホームで掃除の仕事をしている。

町の人間には笑われながらも心には大好きなメタルを抱いている彼らが、
主人公のちょっとした好きな子への見栄から、「フェス出場」という勘違いをされ、後に引けなくなる。
バカといえばバカだが、バカはそこからは凄い。
僕もバンドをしているが、メタル系の人は真面目というか体育会系というか、ストレートな人が多い印象
このバンドメンバーもそんな感じで、見ていて知り合いのバンドの人のように思え、応援したくなってくる。
メタルなんてやっていても仕事の役には立たない(そもそもメタルに限らず音楽がそんなもの)。
なくても生きていける。
しかしそんなことに頑張れるって、素晴らしい事じゃないか。

とにかく笑って笑ってというところでは、『スパイナル・タップ』『デトロイト・ロック・シティ』といった
ロック映画がツボにはまった人なら、本作も好きになることはまちがいなし。
年末年始、毒のないファミリー映画ばかりだけど、家族サービスで付き合ったら、
こんな映画を観に映画館に行ってもいいんじゃない?
きっと自分と同じような気分の人たちが、映画館に集っているはずだ。
映画としては作りは素朴というかシンプルだが、メタルに敬意を表して☆おまけ。
★★★☆前原利行)

2015年7月1日水曜日

ルック・オブ・サイレンス


The Look of Silence

兄を虐殺で殺された青年が、加害者に初めて沈黙から声をあげる。





2014年/デンマーク、インドネシア、ノルウェー、フィンランド、イギリス


監督:ジョシュア・オッペンハイマー(『アクト・オブ・キリング』)
配給:トランスフォーマー
公開:74日よりシアターイメージフォーラム

●ストーリー


インドネシアのスマトラ島メダン近郊。老いた両親と暮らす青年アディは、1965年の虐殺で兄が殺された後に生まれた。母親は半世紀前に殺された息子への想いを胸に封じ込め、加害者と同じ村に暮らしていた。父親は認知症をわずらい、息子の記憶さえない。オッペンハイマー監督が撮影した加害者たちのインタビューを見たアディは、彼らがまったく罪の意識を感じないことに衝撃を受ける。そして加害者たちに会って、罪を認めて欲しいと訴えた。そこで眼鏡技師として働くアディが、無料の視力検査をすることで加害者たちに近づき、質問を投げかけ、その模様をカメラに収めることになった。

●レヴュー 

当初オッペンハイマー監督は、1965年に起きた100万人近い大虐殺の被害者側のインタビューを集め、それをドキュメンタリーにしようとしていた。しかし当局や民兵の度重なる妨害に遭い、撮影の中止を余儀なくされる。ところがその過程で、妨害していた側に取材対象を変えてみると、途端に彼らが協力的になることがわかり、加害者側を撮影して『アクト・オブ・キリング』を完成させた。この作品は各国で高い評価を受け、2014年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。その間、2012年の『アクト・オブ・キリング』の撮影中、被害者の弟であるアディの提案を受け、本作のメインである、アディと加害者の対話の撮影が行われる。『アクト・オブ・キリング』が公開されたら、オッペンハイマー監督はインドネシアには戻ることができないだろう。これが最後のチャンスだった。

『アクト・オブ・キリング』は、衝撃的な作品だった。迷信に左右される未開の社会ならともかく、「ふつうの文明社会にいる人たちが身近な人たちを虐殺できるのか」という問いの答えを見せてくれたからだ。もちろん、アイヒマン裁判が教えてくれたように、薄々はわかっていた。が、特殊な社会状況が人をそうさせるのではないかという、どこに「人のせいではなく、社会が悪い」的な甘い考えが自分にもあった。しかしこのドキュメンタリーを見て、それがまちがいであることはわかった。人は隣の人も、理由さえあれば簡単に殺すことができると。それはどんな社会でもあまり変わらない。「虐殺のメカニズム」を、冷静に、しかもわかりやすく見せてくれたのだ。インドネシアの場合、それが「共産主義」「中国系」だったが、それは別に他のものに簡単に置き換えがきく。普遍的なものなのだ。

『アクト・オブ・キリング』が、加害者側に自らの行為を語らせ、演じさせるという発想の転換の、実にユニークなドキュメンタリーだったのに対し、この『ルック・オブ・サイレンス』は被害者側の支店を入れる、オーソドックスな作品かもしれない。ただ、被害者側が淡々と訴えるという内容であれば、それは正論で、映画の中で善悪は完結してしまうだろう。そこで本作では被害者側が声を大きくあげるのではなく、むしろ「沈黙」を通さねばならなかったことについて考える。自分の息子を殺した人間と同じ村に住み続ける辛さ。沈黙の50年を生きた母親が口を開く。今まで家族以外、誰にもその無念を語ることはなかったろう。

カメラの前で殺害を自慢するものもいる。彼らは当然「善い行いをした」と思っているからだ。通常の神経なら、同じ村の、知り合いの息子を殺したことを、笑いながら話せないだろう。それに彼らは犯罪を生業としている訳ではない。政府の役職に就いたり、政治家になったり、教員になったりするものもいた。人を殺すことで一番重要なのは、自分が罪の意識を感じないことだ。それはたとえば極悪非道な事件が起きた時に、犯人が死刑になってもほとんどの人々の心は痛まない。それは、それだけのことをしたからという、納得できる理由があるからだ。この虐殺の加害者たちも、自分を正当化できる“理由づけ”がそれぞれに持っている。「正義のために」「上からの命令で」「宗教に反する」などだ。

殺害の様子を川のほとりで再現するいい歳のおじいさんたち。ニコニコしながら、「なかなか死ななくてね。何度も刺して、ペニスも切ったよ」と言っている恐ろしさ。犠牲者の血を飲むと狂わないですむという迷信から、血を飲んでいた殺害者の老人も怖い。いや、そこまででなくても、アディの母の弟が収容所で看守として働いており、結果的に見殺しにしていたことを姉に50年も黙っていたことも怖い。

このドキュメンタリーがすごいのは、そうした発言をうまく引き出していることだ。アディが加害者の老人のところに行って最初は目の視力検査を何気なくする。それから「あのころは大変だったでしょう」みたいに最初はさりげなく話題を切り出す。アディの年齢からして、当時のことは知らないはずということもあり、すっかり油断した老人たちは、「あやー、よく殺したよ。殺しても殺しても数が多くてさー」みたいに自慢気に話し出す。そこでアディは、「ところで、私の兄も殺されたんですよ。あなたたちに」と言う。その瞬間の動揺をカメラは見逃さない。すっかり不意打ちを食らった彼らは、「いゃ、命令に従っただけだよ」と言い訳をするものもいるが、「お前は俺を責めに来たのか」と怒り出すものもいる。このまるで“どっきりカメラ”のような展開が実にスリリングだ。人はなかなか人前では本性を現さない。カメラが回っていればなおさらだ。そのため、このような仕掛けが必要なのだろう。「虐殺を自慢している男も、本当は心に疾しいものを感じているのではないか」とアディは信じて始めるが、そこまで自分のしたことを冷静に見ている加害者はほとんどいない。

見ていて強く感じるのは、殴ったほうは殴ったことを忘れて、それすら思い出にできても、殴られた方は一生忘れることも思い出にすることもできないことだ。その痛みは過去のものではなく、今もリアルに感じられる痛みなのだから。
(★★★☆)

●関連情報

・前作『アクト・オブ・キリング』も必見。ぜひ併せて見たい。