2020年7月27日月曜日

ディヴァイン・フューリー/使者

右手に神の力が宿った若き格闘家と老練な神父が悪魔に挑む!

THE DIVINE FURY


2019年/韓国

監督・脚本:キム・ジュファン

出演:パク・ソジュン、アン・ソンギ、ウ・ドファン、チェ・ウシク

配給:クロックワークス

上映時間:129分

公開:2020年8月14日(金) シネマート新宿ほか全国ロードショー

HP:http://klockworx-asia.com/divinefury/



●ストーリー

 警察官の父親と二人暮らしの幼いヨンフは、信心深い父と共に教会に通って祈りを捧げていた。ある晩、父は検問中に事故に巻き込まれてしまう。ヨンフは信じれば主は願いを聞いてくれるはずと熱心に祈るが、父は死んでしまう。弔問にきた神父に十字架を投げつけ怒りをあらわにしたヨンフは、神への信仰を失ったまま成長する。

 20年後、総合格闘技のチャンピオンとなったヨンフ。対戦相手の背中に十字架の刺青を見ると、どこからか「父のために復讐しろ」という声が聞こえ、気づくと相手を激しく打ちのめしていた。ある日、目が醒めると彼の右手には覚えのない傷ができていた。夜にはうなされるようになり、傷からの出血が止まらない。その傷について調べるうち、彼は何かに導かれるようにヴァチカンから派遣された悪魔払いのアン神父と出会う。そして、その右手に不思議な力が隠されていることを知る。一方、街にはびこる悪が密かに彼らの前に迫っていた。


●レヴュー 

 不思議な力を得た青年が、ヴァチカンから来た老練な悪魔払いの神父とともに闇の司教に挑む、というストーリー。主人公の右手にできた傷が聖痕で、そこに正義の力が宿っていることを知ると、彼はその力を使って神父を助けて、悪霊と戦うことになる。悪魔払いの映画では、エクソシストと人間に取り憑いた手強い悪霊との死闘がグロテスクに描かれることが多いのだが、本作は、主人公の葛藤にも焦点が当てられていて、見所はもう少し別なところにあるようだ。


 自分の誕生と引き換えに母を失い、信仰に厚い父と二人で暮らしてきた主人公のヨンフ少年。神を信じれば、主は自分の声を聞いてくれると疑っていなかった。しかし、警官だった父は事故に合い、ヨンフの祈りは届かず、父は命を落としてしまう。それ以来、ヨンフは神や十字架に憎悪を抱くようになり、「父の復讐をしろ」という悪魔の囁きながら成長していくのだが、その裏には、父への強い思慕の念があったようだ。アン神父との出会いが、苦悩を続けてきたヨンフの心を少しずつ解放していく。幼少時の父との別れ、そして成長した今、ずっと心にしまっていた父と会いたいという思いが募り、父の姿をアン神父に重ねていくところが静かに描かれている。ひとり悪魔払いに向かうアン神父の後ろ姿に、最後に見た父の姿を重ねるシーンが秀逸。アン神父を助けたいという必然の思いが、上手く描かれていて、悪魔払いの作品に物語性を深めている。謎の傷は、それは父が死に行く時に、夢枕で息子の手に自分の手を重ね、力を授けていたということに気づく。それが聖痕で、そこに宿った力は、父がヨンフに残したメッセージというわけだ。


 そうした苦悩を抱えた主人公を演じたのは、ドラマ『花郎(ファラン)』、最近では『梨泰院クラス』が日本でもヒットしたパク・ソジュン。『ミッドナイトランナー』では、若手のカン・ハヌルと共に警察学校の生徒役を好演した。本作では、格闘家という設定で、肉体美とアクションも見所。前半は苦悩を抱え、憂いの表情を見せながら(女性ファンを惹きつけている魅力溢れる笑顔を見せるのは、ほんの一瞬!)で、後半は、正義感溢れる姿で魅力全開。そして、もう一人の主役、ヴァチカンから来たエクソシストを演じたのが名優アン・ソンギ。堅物なヨンフとの会話に時折茶目っ気をみせる人物像で、登場した瞬間から観客を作品に引き込む演技力はさすがだ。名優の力量もあるだろうが、主演ふたりの相性とバランスが絶妙で、この作品の見どころのひとつになっている。

 アクション、特撮VFXはスタイリッシュ。悪魔祓いの映画としては、筋書きがシンプルでエグさは控えめ。適役の背景の描写がもう少し欲しかったと思うが、気弱な悪魔祓いのチェ神父役に『パラサイト 半地下の家族』のチェ・ウシク、悪魔に魂を売った適役には『MASTER /マスター』、TVドラマ『ザ・キング 永遠の君主』のウ・ドファンと旬な若手俳優が顔を揃え、新旧俳優の共演が韓国映画ファンには嬉しい作品になっている。

 悪魔は人の心の弱さに付け入ってくるようだ。昨今の世相を見ると、悪魔はこの世のどこかに常に蔓延っているように思えてしまった。(★★★☆加賀美まき)

2020年7月26日日曜日

剣の舞 わが心の旋律

第二次世界大戦中のソ連で生まれた、ハチャトリアンの名曲誕生秘話


Tanets s sablyami

2018年/ロシア、アルメニア
監督:ユスプ・ラジコフ
出演:アムバルツム・カバニアン、ヴェロニカ・クズネツォーヴァ、アレクサンドル・クズネツォフ
配給:アルバトロス・フィルム
上映時間:92分
公開:7月31日より新宿武蔵野館ほかにて
公式HP:tsurugi-no-mai.com/



●ストーリー

第二次世界大戦中のソ連。1942年11月29日、レニングラード国立オペラ・バレエ劇場は、疎開先のモロトフ(現ペルミ)で、12月9日に初演を迎えるバレエ『ガイーヌ』のリハーサルに励んでいた。その作曲家アラム・ハチャトリアンは、振付師によるたびたびの曲の変更に苛立っていた。そんなアラムを気遣うのは、ソリストのサーシャだ。
そこに過去に因縁がある、文化省の役人プシュコフが検閲にやってくる。完成した『ガイーヌ』だが、プシュコフはその結末の変更を命じる。時間のない中、アラムが作り出したその曲とは。

●レビュー

人を急かす作用があるのか、日本の運動会で必ず流れるのが「剣の舞」だ。僕は小学生のときに、その名前と曲からハチャトリアンを「ハチャメチャなトリアン」と覚え、面白い人だと思っていた。しかしそれがバレエ曲であることは知らず、時として「ウィリアムテル序曲」の「スイス軍の行進」と混同していた。

高校生になり、「2001年宇宙の旅」のサウンドトラックを買うと、そこにはハチャトリアンの「ガイーヌのアダージョ」が入っていた。ディスカバリー号が木星に向かうシーンで流れる曲で、陽気な「剣の舞」とは打って変わり、物悲しい陰鬱な曲だ。「ハチャトリアンはこういう曲も書く人なんだ」と思った。

ハチャトリアンの曲は知っていても、彼がどんな人だったのかはほとんどの人は知らないだろう。海外通なら、彼の名前からアルメニア人ではないかぐらいは推測できるかもしれない。
1903年、ロシア帝国下のティフリス(現トビリシ)のアルメニア人一家に、アラム・ハチャトリアンは生まれる。トビリシは、現在はジョージアの首都だが、当時ジョージア人は町の人口の3割程度で、商業に従事するアルメニア人が多く住んでいたのだ。
ハチャトリアンは大学入学のためにモスクワに向かい、そこで音楽の才能を認められていく。ソ連が成立し、カフカスの民族音楽の旋律を取り入れたハチャトリアンの音楽は、国の政策にもマッチした。
歴史に残るトルコにおける「アルメニア人大虐殺」は、彼の青年期に起きた事件だ。

本作は、そんなハチャトリアンが、名曲「剣の舞」を生み出す数日間を描いた作品だ。
映画では、かつて確執があった人物から無茶振りされて嫌々作り始めるが、史実でもこの曲は『ガイーヌ』初演前日、急遽設けられたダンスシーンのために短時間で作曲されたものだ。
バレエでは最終幕にクルド人が剣を持って踊る戦いのダンスだが、旋律にはアルメニアやジョージアなどの非西洋的なものも盛り込まれているらしい。
映画では、抑圧されたアルメニア人の心情を代弁するかのように(同じく圧力を受けているハチャトリアン自身を重ね合わせて)作曲されるが、曲自体はわずか2分半。
列車と線路の音に合わせて、鍵盤の上でリズムを決めるハチャトリアンだが、ここは創作かも。

さて、映画としてはというと、わりと平凡な出来。敵役となるプシュコフの動機もありきたりだし、肝心のハチャトリアンの掘り下げも浅い。
映画というより、テレビドラマ程度の作りだ。
かといって、つまらなくもない。ショスタコーヴィチとオイストラフが、陣中見舞いに現れる下りは楽しいし、少ないながらもロケされたアルメニアの風景もいい(アララト山をのぞむホル・ヴィラプ修道院も出てくる)。
こんなこともあったのかなと、さらりと観れる作品だ。(★★★前原利行)

2020年7月17日金曜日

パブリック 図書館の奇跡

「パブリック=公共」とは何かを、あらためて考える、エミリオ・エステベス監督・主演作



The Public
2018年/アメリカ
監督:エミリオ・エステベス
出演:エミリオ・エステベス、アレック・ボールドウィン、ジェナ・マローン、クリスチャン・スレイター
配給:ロングライド
公開:7月17日よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館にて
公式HP:https://longride.jp/public/



●ストーリー
大寒波に見舞われたシンシナティで、ホームレスたちが暖をとるために、朝から図書館に列をなしている。
図書館員のスチュワートは、彼らに対して寛容な態度で接しているが、かつて“匂い”の抗議を受けて図書館から追い出したホームレスによる訴訟で、自分が訴えられていることを知る。
凍死者も出る寒さの中、シェルターに入れなかったホームレスたちが、凍死を避けるために集団で図書館に居座ろうとする。そこでスチュワートがとった行動とは。

●レビュー
本作を見ていて頭に浮かんだのは、台東区で起きた災害時に公共の避難所でホームレスを拒否した事件と、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」だ。

「公共(映画の原題であるThe Public)」が何であるかを理解するのは難しいが(致し方がない部分もあるが)、アメリカでもそれは変わらない部分もあるのだろう。

実は僕も「直営サービス、行政サービス、公共サービス、市民社会サービス」がどう違うのかはよくわかってない。 認証保育所と認可保育所の違いも。いい歳なのに、世の中の仕組みのことがさっぱりわかっていなし、わからないまま死ぬのかもしれない。

公共図書館は、国家による本の無料レンタルショップと思いがちだが、それは違う。公共図書館の役目は、ただ本を貸すだけではなく、すべての人に教育や知識の場を均等に与えることだ。それは本を読むだけではない。たとえば、いま、何かを手続きしようとしても、「ホームページをみてください」とお役所だって言うし、調べ物も本よりもネットの方が早い。しかし世の中には、パソコンだって買えない人もいるのだ。図書かが奉仕すべきは行政ではなく、それを利用すべき人々、そしてその機会はすべての人に、建前上でも均等に与えられなくてはならない。

池袋の老人暴走の交通事故のあと、「上級国民」と揶揄する声が上がったが、何となくそれに嫌な感じがしたのは、その声を上げている人たちが、自分が「中級」を自明としているような気がしたから。「中級国民」は、上級に不満を言いつつも、「下級」という層を作って差別していないのかと。

そんな差別が何となく出てしまったのが、台東区の災害時の避難所でホームレスを拒否した事件だ。基本的には、公共の場はすべての人を受け入れることになっているが、台東区では「住所不定の人は受け入れない」という独自判断をした(他の区ではなかった)こと。これは行政が「想定していなかった」と言い訳をしたが、行政がどこも想像力に欠けているはわかる。

ただし、一般人のコメントに「ホームレスを一緒に入れないでくれ」という声も多かった。「税金も払っていないのに」(公共サービスは有料のものもあるが、納税で差別はされない)とか、その目線は何となく、日頃彼らが不満をぶつけている上級国民がするものとそう変わらなかった。

映画の内容からはだいぶ離れてしまったが、本作はそんな「公共」とは何かを考える作品で、主人公は「公共」の精神を守ろうとして「行政」と対立することになる。「公共」は「行政」の出先機関ではないのだと。

映画はエステベス人脈なのか、低予算映画ながら、アレック・ボールドウィン、クリスチャン・スレイターなどのスターも揃えている。ただし、脚本がうまく整理されておらず、いらないキャラやエピソードもあり、満足のいく出来とは言い難い。語り口もまったりしている。
題材は面白いと思うのだが、2時間を長く感じてしまう。枝葉を切って90分ぐらいにすれば、もっと見やすくなったのではないか。★★★前原利行)

2020年7月11日土曜日

LETO


80年代のレニングラード。ロックで結びついた若者たちの青春を描く実話





LETO

2018年/ロシア、フランス

監督:キリル・セレブレンニコフ

出演:ユ・テオ、ローマン・ビールィク、イリーナ・ストラシェンバウム

配給:キノフィルムズ

公開:724日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか

上映時間:129




●ストーリー


1980年代前半、ソ連時代のレニングラードにも西側諸国の文化が浸透し、ロックミュージックに影響を受けたグループが次々と現れていた。その活動はまだアンダーグラウンドながら、人気を博していたバンドが「ズーパーク」だった。そのリーダーのマイクのもとに、ロックスターを夢見るヴィクトルが訪れる。人を魅了するヴィクトルの曲を聴き才能を感じたマイクは、ヴィクトルを何かと面倒を見てバックアップを行うことに。しかしマイクの妻のナターシャもまたヴィクトルに恋心を感じるようになっていった。不思議な三角関係の中、ヴィクトルはレコーデンィグを始める。



●レビュー


ロックがまだ商業化されていない、初々しい姿を描く音楽映画だ。ただ、それは50年代のアメリカでも60年代のロンドンでもなく、80年代のソ連での出来事。長らく西欧文化を拒んでいたソ連にも少しずつ自由化の波が押し寄せ、このころには西側諸国を30年にもわたって熱狂させていたロックが知られるようになっていた。大物ロックアーティストとして初めてソ連で公演を行ったのは、1979年のエルトン・ジョンだろう。その映像を見たことがあるが、観客はみな席から立ち上がったり騒いだりを禁じられていて、「ああ、やっぱり共産圏だな」と思ったことがある。



それまでソ連で密かには聴かれていた西側ロックだが、1980年のモスクワオリンピック前後から比較的自由に聴けるようになる。そしてそれに触発され、ロシア語のオリジナルのロックを歌うロックバンドも結成された。本作はそのソ連のロック黎明期と、のちに知られるようになるロックアーティストの青年期を描いた作品だ。



話の中心となるのは、ロシアの伝説的バンド「キノー」のボーカルであるヴィクトル・ツォイ、そして当時人気を博していたバンド「ズーパーク」のボーカルのマイク、そしてマイクのパートナーであるナターシャの三人の関係だ。アンダーグランドとはいえすでにソ連のロックの中では一目置かれているマイクが、自分より若いヴィクトルが持つ才能を見抜く。しかしナターシャも彼に惹かれていることを知り、嫉妬も混じった複雑な関係が生まれていく。



録音風景が出てくる「キノー」のデビューアルバム『45』がリリースされたのが1982年、デュランデュランの話題、デヴィッド・ボウイの新譜が『スケアリー・モンスターズ』(81)などから、映画の舞台は198182年ぐらいの出来事だろう。劇中でMTV風に演出されている英語曲は、時代的には古いヴェルヴェット・アンダーグラウンドやT・レックス、トーキング・ヘッズの初期曲などもあり、ロック解禁と共に古い曲も新しい曲も一気にソ連に入ってきたのだろう。



物語の合間に挿入される、MTVミュージックビデオ風の演出が楽しい。バスの乗客が突然歌い出すイギー・ポップの「パッセンジャー」、若者たちが列車内で大暴れするトーキング・ヘッズの「サイコ・キラー」、雨に打たれながら電話ボックスで出会った中年女性が歌い出す「パーフェクト・デイ」となど、ミュージカル的要素もあり、ただオリジナルを流すよりわくわくするし、フィルムに傷をつけたアニメのシネカリグラフの手法も面白い。



80年代、初めてウォークマンを手に入れた時、それで音楽を聴いている間は誰もが自分が映画の主人公の気分だった。この演出も、音楽が自分を物語の主人公にさせてくれる高揚感をぴったり表している。特に若者にとってロックは、自分が社会のパーツではなく、自分の物語の主人公であることを思い出させてれる存在かもしれない。実際にレニングラードの会場で演奏されているシーンと、脳内で盛り上がっている会場のシーンの対比もいい。みな、ああいうことを夢見ているのではないだろうか。つまらないと思っていた日常も、音楽や愛があればドラマチックな毎日に変わるのだ。



予備知識がなかったのでちょっと不思議だったのが、アジア系のヴィクトルがふつうにバンドに混じっていること。実際のヴィクトルは、朝鮮系カザフ人とロシア人とのハーフだった。そんなヴィクトルのエキゾッチクな容姿に、ナターシャは惹かれたのかもしれない。



生まれたばかりの(ソ連の)ロックシーンの初々しさ、そして青春の輝きをとらえた佳作だ。(★★☆前原利行



●映画の背景


シベリア鉄道の開通前後から朝鮮半島からウラジオストックなどの極東ロシアへ移住する朝鮮人が増えており、「高麗人」と呼ばれた彼らは、ロシアがソ連に変わるころにはその数は10万人ほどに増えていた。日本との戦争が迫るころ、スターリンは彼らを日本のスパイとみなし、17万人の高麗人を中央アジアに強制移住させる。当時の中央アジアには、敵になりそうなドイツ系移民やチェチェン人も強制移住させられていたという。カザフスタンに住んでいたヴィクトルの父親も、そうした高麗人のひとりだった。



●関連情報


ヴィクトルが作ったバンド「キノー」の名前の意味はロシア語で「映画」。「キノー」はロシアで成功したロックバンドのひとつで、ヴィクトル・ツォイは今でも「ロックの神様」的に高い人気があるという。しかし人気が出始めた19906月にヴィクトルは交通事故で亡くなり、キノーは解散した。

2020年7月10日金曜日

グレース・オブ・ゴッド 告発の時


フランスで起きた聖職者による児童への性的虐待。その告発を描く、オゾン監督最新作

 


 Grace a Dieu
2019
監督:フランソワ・オゾン
出演:メルヴィル・プポー、ドゥニ・メノーシェ、スワン・アルロー
配給:キノフィルムズ/東京テアトル
公開:2020717日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて
上映時間:137
公式HPgraceofgod-movie.com/
ベルリン国際映画祭 銀熊賞


●ストーリー

 

妻や子どもたちと共にリヨンに住むアレクサンドル。カトリック教徒で家族と共に熱心に教会の行事にも参加しているが、幼少時に自分に性的虐待をしていたプレナ神父が、いまも子供たちに聖書を教えていることを知り驚く。アレクサンドルは教会に訴え、その仲介でブレナ神父と面会するが、ブレナは自分の行いをあっさり認めたものの、謝罪をしないばかりか、教会はその行為を知りながら何十年もブレナを放置していたという証言をする。すでに時効になっていたが、アレクサンドルは悩みながらも告発をする。

その後、いまは成人したフランソワの両親の元に警察の調査が入る。フランソワもやはり幼少時に性的虐待を受けていたのだ。まだ時効が成立していないフランソワは、ブレナ神父に被害を受けた者たちを集め、集団訴訟に踏み切る。心に傷を負ったまま生きてきたエマニュエルも、そのニュースを知り、参加。しかし教会は、事件を封印していた責任を逃れようとする。

●レビュー

 

本作は、フランスのリヨンで起きた聖職者による子供への性虐待事件をテーマにした実話だ。カソリックの聖職者は、妻帯が禁じられている。多くの者は禁欲のまま正しく生きているが、なかには教会で助手を務める男の子たちに手を出す者もいる。それは昔から陰では噂されていたが、実際にリアルな事件として告発されたのは2002年のアメリカでのことだった。

ボストン・グローブ紙が告発した2002年の事件は、司祭が30年にわたって130人もの児童を虐待していた。それがそれまで明るみにならなかったのは、相手が子供だということ、子供の方が罪の意識を持ち告白できなかったこと、また教会の上層部がもみ消しをしたり、告発者に圧力をかけたりしていたからだった。これが明るみになり、アメリカでは数千人規模の聖職者が児童虐待容疑で調査を受けた。
この事件はのちに『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)として映画化され、アカデミー作品賞を受賞した。やがてこうした事件は、ドイツ、イギリス、中南米、さらに日本でもあったことが報告された。

本作は2019年から裁判が始まったフランスの事件の映画化だ。起訴されたブレナ神父は20203月に有罪判決を受けた。つまり本作はまだ裁判が進行する中で公開されたのだ(20192月のベルリン国際映画祭に出品)。そのため、裁判中の人が実名で登場する映画を公開するのはどうかという意見もあったようだ。
本作終了後のテロップを見ると、20192月以降の出来事も出るので、世界公開に合わせて追加された情報もあるのかもしれない。

少年への性的虐待というショッキングな犯罪を犯す神父も問題だが、映画を観ていて被害者ならずとも観客が追求したくなるのは、教会という組織の隠蔽体質だろう。映画では神父があっさりと行為を認めていることに驚く。そのため、彼は病気で自分では止められなく、逆に誰かに止めて欲しかったのではないかとさえ思う。しかし教会の上司は神父の虐待を知りつつも止めもせず、スキャンダルが広まる前に地区を移動させていた。これでは隠蔽工作と言われても当たり前だ。
こうした自浄作用ができない組織的な問題が、カソリック教会にあったのではないか。2013年に就任した教皇フランシスコは、前教皇が「身内に甘い」という批判を受けていたので、厳しい措置を取っているようだが。

また、本作が観客に教えてくれるのは、「幼少期に受けた心の傷」の大きさだ。日本でも、何十年も経って子供時代に受けた性的虐待を告発する事件がある。告発されるのは、学校の先生だったり父や親族だったりするが、そうすると必ず「なぜいまさら」という人が出てくる。「その時に言わないで、成人してからかなりたってから言うなんて」と被害者を責める無責任な野次馬大衆だ。しかし、苦しみは当人しかわからない。
虐待親から逃れられない子供のように、子供はまだそれが世の道理から外れた悪いことだと思っていない。狭い世界しか知らない、あるいは信頼しているものから受けたからだ。そうした起きたことは心の奥底に封印されていく。しかしそれは忘れた訳ではなく、常に解消されないまま自分を蝕んでいくのだ。

本作がユニークな造りなのは、主人公が物語の進行に伴ってリレー方式で変わっていくことだ。最初は社会的にも成功し、家族にも恵まれているアレクサンドルだ。常識的で多くの観客が共感しやすいタイプだ。次に主人公となるのはフランソワ。彼はアレクサンドルと真逆のエキセントリックな性格で、時には過激となるため引いてしまう観客もいるかもしれない。しかし彼がいるからこそ、裁判という手段に進むことができた。そして最後のパートの主人公とも言えるエマニュエル。風変わりな彼だが、実は三人の中では彼が一番辛い生活を送っているのだ。

自分が親の世代になったからもしれないが、被害者の両親たちの描写も細やかなことに感心する。息子の力になれなかった罪滅ぼしに、電話応対を買って出るエマニュエルの母親。それと対照的に無関心な父親。子どもの悩みを察してあげることが、親としての務めだろう。

フランソワ・オゾン監督らしさは薄いかもしれないが、社会派エンタメとしては上出来で、オススメできる作品だ。★★★☆前原利行)

●関連情報

・ニュース/少年虐待で起訴された元司祭、裁判で自身の性的虐待被害を告白 フランス
・ニュース70年で子ども推定3000人超が性的虐待被害、仏カトリック教会