2019年10月30日水曜日

永遠の門 ゴッホの見た未来

At Eternity’s Gate

 ゴッホの最期の日々を描く。ウィレム・デフォーの熱演が光る


2018
監督:ジュリアン・シュナーベル(『バスキア』『潜水服は蝶の夢を見る』)
出演ウィレム・デフォー、ルパート・フレンド、オスカー・アイザック、エマニュエル・セニエ、
   マチュー・アマルリック、マッツ・ミケルセン
配給:GAGA、松竹
公開:118日より新宿ピカデリー他
公式HP : gaga.ne.jp/gogh/

■ストーリー
画家としてまだ評価されていなかったフィンセント・ヴァン・ゴッホは、出会ったばかりの画家ゴーギャンの「南へ行け」というアドバイスを受け、南仏のアルルにやってくる。しばらく安宿に滞在していたゴッホだが、カフェのジヌー夫人の紹介で「黄色い家」を紹介してもらう。やがてゴッホは絶対の美を見出していくが、孤独は彼と住民の間にトラブルも引き起こしていた。一見を案じた弟のテオは、金銭的な援助を条件にゴーギャンに兄と合流することをすすめる。

レヴュー
 1887年から1890年までのゴッホの最晩年を描いた映画。ゴッホ役のウィレム・デフォーの演技は高く評価され、ヴェネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したほか、アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。弟のテオにはルパート・フレンド、ゴーギャンにオスカー・アイザック、ジヌー夫人にエマニュエル・セニエ、ガシェ医師にマチュー・アマルノック、聖職者にマッツ・ミケルセンと他のキャストも豪華だが、全編デフォーは出ずっぱりだ。

一応、事実に沿ったゴッホの伝記映画風にはなっているが、セリフは少なく、カメラはただゴッホの姿を追う。
ゴッホだけのシーンが全体の半分ぐらいあるのは、ゴッホが孤独だからだろう。
撮影時62歳ぐらいのデフオーが、37歳で亡くなったゴッホを演じているが、特に違和感はない。
撮影はかなり特殊で、大半がゴッホに近寄った手持ちカメラの長回しと、遠近両用レンズを使ったゴッホの主観に近い映像だ。
画面は斜めになったり揺れたりして、人によっては前の方で見ていると酔うかもしれない。
遠近両用レンズを使った映像は、そのタイプの眼鏡を持っている人ならわかるだろうが、上半分でピントが合っていたら、下半分はボケで見える状態になっている。これは、他の人には見えない世界が見えたゴッホの視点を表している。
野心的な映像だが、それが効果的かどうかは個人的には疑問。画面が落ちかなくて集中できないからだ。

本作のゴッホの姿が次第にイエス・キリストにダブってくるのは偶然ではない。
そもそもデフォーは『最後の誘惑』でイエスを演じていたし、本作でも神父との問答で自分とイエスを重ねているゴッホのセリフが出てくる。
ゴッホは画家になる前は神父を目指していたので、聖書に詳しい。
「なぜ神は、誰も欲しがらない絵を描く才能を私に与えたのか。それは私の絵は、未来の人々のためのものだから」とゴッホは神父に言う。
イエスの教えも同時代の人々には受けいられなかった。
その時点では、キリスト教も“未来の宗教”だったとゴッホは言う。

かといってゴッホは聖人ではない。
特に彼の身近に暮らしていた人にとっては、いつ人に危害を加えるかわからない危ない存在だった。
映画でもセクハラまがいのことをしたのに、「記憶にない」とゴッホに言わせている。
南仏では子供に石をぶつけられて追いかけるが、最後には子供が自分に犯した罪を自ら被って死んでいく。

ゴッホが絵を描くシーンの多くは、デフォーが実際に描いている。
ゴーギャンが「早く描きすぎ」というように、ゴッホの筆は早く、ためらいがない。
なので実際にデフォーが描く必要があったのだ。
より複雑なタッチの部分は、監督のジュリアン・シュナーベルの手によるもの。
本作に飾られているゴッホの模作の多くもシュナーベルによって描かれたものだ。

シュナーベルは、バスキアなどで知られる1980年代の新表現主義の代表作家で、のちに映画監督も始め、『バスキア』『潜水服は蝶の夢を見る』などを送り出した。
そんな画家としても一流の感性が本作には込められている。

映画は最近のゴッホ研究により、ゴッホ自殺説を否定している。
ゴッホの油絵が動くタッチで作られた映画『ゴッホ 最期の手紙』もそうだった。
ゴッホは自殺した悲劇の画家ではなく、最期まで自分の芸術に向き合った。
彼の作品からそう考える方が、腑に落ちるのだろうな。

ハリウッド映画しか見ていない人には、タルかったり、きつかったりするかもの映画。
正直、僕もピンと来たわけでなく、夢うつつの中でゴッホと生活を共にしたような非現実感に包まれていた。
ただしデフォーの熱演や、各俳優の存在感、神父との問答は面白く感じた。
ゴッホは少年の罪を許し、かぶって死んだ。キリストのように。
そして、今、私たちはそのゴッホを信仰している“未来”に生きている。
  (前原利行 ★★★


2019年10月28日月曜日

アダムズ・アップル 私たち、試されてる!?

囚人の更生を受け入れる北欧の教会で起こる不条理と奇跡のダークコメディ

 
監督:アナス・トマス・イェンセン
出演:マッツ・ミケルセン、ウルリッヒ・トムセン、パプリカ・スティーン
配給:アダムズ・アップルLLP
公開:1019日より新宿シネマカリテにて
公式HP : www.adamsapples-movie.com/
 


 公開劇場が東京が新宿シネマカリテと吉祥寺アップリンクだけと、観る人は『ジョーカー』の1万分の1ぐらいだろうとは思うが、ここに書いておけば何かの機会で思い出す人もいるかもしれない。

 制作は2005年と少し前のデンマーク映画で、主演は今や「スターウォーズ」から「ドクター・ストレンジ」まで出るようになったマッツ・ミケルセン

でももともと老け顔なんで、若くも見えない。小品だが、僕は宗教ものに興味があるので、なかなか楽しめた。

 デンマークの片田舎にある教会に、更生プログラムで仮釈放された囚人アダムがやってくる。アダムはヒトラーを信奉するネオナチで暴力的な男だ。
それを出迎えるのはミケルセン演じる牧師のイヴァン。

信仰心篤く、物事を異常にポジティヴに考えるが、人の話や意見を全く聞かない変な男。
教会には他にも二人の更生中の男がいるが、彼らは全く更生していない。


 自分を“根っからの悪党”というアダムは、次第に超ポジティヴなイヴァンにイライラして暴力を振るうが、イヴァンは動じない。なんとか、イヴァンの欺瞞を暴こうとするアダムだったが。。

 観客は最初こそ乱暴者のアダムに嫌悪感を抱き、聖職者のイヴァンに同情するが、次第にアダム同様、イヴァンの異常さにイライラしてくる
自分の教えに固執して押し付け、思いやり的な人間関係は一切ない。

やがてイヴァンがなぜそうなったのかが、観客に明かされていく。
あまりに不幸が連続して身に降りかかったため、それを「神の試練」と盲信し、自分の頭の中だけの虚構の世界を作り上げていたのだ。
なので他人に拒否されたり、否定されても、自分の間違っているとは思わず、それも神の試練だと思っているのだ。


 さて、この映画のヒントとして出てくるのが旧約聖書の「ヨブ記」だ。アダムの部屋に置いてある聖書が、床に落ちるたびに開かれるページだ。
ヨブ記は善人で信仰に篤いヨブが、理不尽な試練に次々に遭い、幸福を全て失う話。
そこで友人たちがヨブを訪ねて、ヨブと議論をする。
なぜ、ヨブは不幸になったのか。彼らが主張するのは「因果応報」論なもので、ヨブに罪があったり、悪い行いをしたからと言うが、ヨブは納得しない。
つまり因果応報論だと、神は人間が理解できる理屈や善悪の基準の中でしか行動していないことになる。
それは、神ではなく、人間中心の考え方だと。
つまり、神は善人を殺したり、悪人をそのままにしておくという、人間には理解不能なこともあるが、それは我々には計り知れない神の御心であるということだ。
なので牧師イヴァンにある程度、ヨブが投影されていることは、間違いない。


 映画のタイトルでもあり、教会の庭に植えられたリンゴの木も十分キリスト教的な存在だ。
牧師はこのリンゴの実で、アップルケーキを作るようにとアダムに言う。しかしリンゴの実が成るまでに、虫やカラスがそれを阻もうとする。
アダムとリンゴの実といえば「エデンの園」であり、「原罪」だが、ここでは一概にそうでもない。
最初はやる気のなかったアダムだが、次第にその使命を果たそうと目的を持っていく。


 他にも、死んだと思われたイヴァンが「復活」したり、イヴァンが好きでいつもカーステでかけているのが「愛はきらめきの中に」だったり(歌詞に「君は僕の救世主」が出てきたりと、深読みすると神への愛を歌った歌にも聞こえる)と、キリスト教的な記号があちこちにあり、それを考えるのも面白いだろう。
もっともヨーロッパでも今や教会に行く人はほとんどいないので(映画でもそう描写されている)、知らなくも楽しめるようにはなっている。
まあ、ちょっと変なコメディです。嫌いじゃない。

(前原利行★★★☆

2019年10月26日土曜日

少女は夜明けに夢をみる



イランの少女更生施設。彼女たちはなぜここに来なければならなかったのか。
 
2016年/イラン

監督:メヘルダート・オスコウイ
配給:ノンデライコ
公開:112日より岩波ホールにて

●ストーリー
新年を控え、雪が降り積もるイランの少女更生施設。少女たちが雪遊びを始める。ここは未成年の少女たちを収容する更生施設。彼女たちがここに来た理由は様々だ。強盗、売春、薬物使用、殺人などを犯して逮捕されたもの、性的虐待、家庭内暴力を受けて家出して収監されたものもいる。家族が守ってくれない世界では、彼女たちは社会的には“見えない存在”なのだ。そんな彼女たちが、カメラの前で自らを語りだす。

●レビュー
映画『ジョーカー』とちょうど同じ頃に観たので、本作に出てくる少女たちも、また『ジョーカー』のアーサーとWって見えた。社会で行き場をなくし、“見えない存在”になっている人々だ。しかし今の日本では、僕やこれを読んでいるあなたも一瞬にしてそんな存在になる危うさがある。今や、社会の分断は世界の問題なのだ。

ドキュメンタリーの舞台は、イランのテヘランにある未成年の少女たちの更生施設。
彼女たちが収監された理由はさまざまだが、ひとつ共通するのは、家族から見捨てられたか、家族から逃げ出したかしていることだ。
小さな頃から親の暴力や薬物依存、身近な人による性的虐待を受けていた彼女たち。
薬物は親の影響で始めたという少女もいるように、収監されている少女たちの周りの世界はドラッグに溢れている。
ドラッグ欲しさに強盗を働いたり、また親にお金をせびって断られ親を殴った少女もいたりする。

一人の少女は、ドラッグによりたびたび家族に暴力を振るう父親を、母と姉と共謀して殺したという。ドラッグ欲しさに、娘に売春させるような父親と暮らす生き地獄。
また、性的虐待を受けた経験がある少女たちも多い。しかし訴えても相手は社会的に信用のある男だから信用されず、親に殴られる。
15歳で子供を産んだ少女は、子供に会いたいと泣く。

カメラの前で語る彼女たちの人生は、まだ大人になってもいないのに、あまりにも辛く悲しい
そんな彼女たちの前では、日本でオッさんたちが使いたがる“自己責任”という言葉は、あまりにも無力に聞こえる。親にさえ守られないで育った子どもたちを、誰が責められようか。
彼女たちを見えない存在としてしか扱わない塀の外の世界では、彼女たちは“犯罪者”としてしか生きる道がないのかもしれない。ただ、このカメラの前でふと見せる、彼女たちの喜びや悲しみの表情は犯罪者ではなく、まだ子どもの顔だ
そんな少女に質問を投げかける。
「あなたの夢は?」
「死ぬこと」。

大人になる前に人生に疲れた少女たち。しかしこれはイランだけの問題ではない。
育児放棄や虐待が毎日のように報道されている私たちの国でも、同じことが起きているのだ。
子供たちの罪は大人たちの罪である。彼女たちを罰するなら、大人たちも罰しなければならない。゜それならそれを生んだ社会も同罪だ。
見ていて心苦しくなるが、見るべきドキュメンタリーだ。
前原利行 ★★★★

2019年10月17日木曜日

ロボット2.0


2.0



スーパースター、ラジニカーント主演の大ヒット作の続編

 2018年/インド

監督:シャンカルロボット』『ボス その男シヴァージ』
出演:ラジニカーント(ロボット』『ムトゥ、踊るマハラジャ)、アクシャイ・クマール(パッドマン 5億の女性を救った男)、エイミー・ジャクソン
配給:アンプラグド、KODOKAWA
公開:1025日より新宿ピカデリー、渋谷シネクイントほか


●ストーリー
南インドのチェンナイで、携帯電話が一斉に空に飛んで消えていくという事件が起きる。その後、携帯業者や通信会社の社長が携帯に襲われて変死する事件が続く。事態を重く見た政府に呼ばれたロボット工学のバシー博士は、助手の女性型ロボットのニラーと共に事件を追う。電波の発信源を追った先には大量のスマホがあり、それが合体して巨大な怪鳥となって二人を襲ってきた。バシー博士は解体されてしまったロボット、チッティを復活させて怪鳥と戦わせる。やがて怪鳥の正体が分かってくるが。。

●レビュー
日本に久しぶりにインド映画ブームを巻き起こし、ラジニカーントを再び知らしめるきっかけになった2010年の映画『ロポット』の続編だ。監督のシャンカル、博士とロボットの一人二役がラジニカーントというのは同じだが、今回は悪役として、昨年パッドマン 5億の女性を救った男が日本公開もされアクシャイ・クマールがキャスティングされている。もっともメイクが激しくて、パッドマンの人とは気がつきにくいが(笑)。製作費は90億円というインド映画史上最大級で、その多くは前作同様過剰なVFXに費やされているのだそうだ。インドでは2018年に公開されて大ヒットした。

あれから8年。インドは変わらないようで変わった。インド映画を見続けているとわかるのだが、洗練されてきたのだ。アクション、コメディ、恋愛、ミュージカルと一つの映画に全て詰め込んで幕の内弁当のようにする映画は急激に減り、ジャンルに分かれる“ふつうの”映画が主流になってきた。そしてインドだからというローカルさが減り、世界の誰もが見ても通用する、いわゆる“ハリウッド”ぽい作風になってきたのだ。それはマーケットが世界に広がってきたこともあるだろう。大作の製作資金は、自国だけで回収することはできないこともある。

前作『ロポット』が面白かったのは、実はハリウッドに依頼したVFXの凄さではなく、その使い方が実にインド的だったこと。インド的な生活をする人々の中にハイテクを持ち込んだ設定、そして「そんなことにお金を費やすのか!」というハリウッドではありえないバカなCGの使い方がとても新鮮で、「さすがインド!金の使い方が違う」と思ったのものだ。で、今回はどうかというと、その点、かなりハリウッド大作CG映画に寄っており、『トランスフォーマー』とかアメコミ映画に似たテイストになり、どこかで見たようなCGアクションばかり。奇抜な絵を見せてくれなくなっている気がした。面白い絵面は、前作ですでにやったもので新鮮味も薄い。

“悪役”を作って続編を続けるというのも、アメコミ映画と同じやり方。なので本作では、実はラジニカーント演じる博士も、ロボットのチッティも影が薄い。物語を動かすのは、“悪役”となるアクシャイ・クマール側で、そちらのストーリー(なぜそんなことをしているのか)の方が、映画の中では印象深くなっているのだ。

もちろん“インドらしさ”も随所にこの映画にはある。本作のストーリーのもととなるのは、世界有数の「携帯中毒国インド」への批判だ。インドに最近行ったことがある方ならわかるだろうが、インド人は本当に携帯好きだ。もともとおしゃべり好きということもあるが、携帯なしには生きられない感じは日本以上。それがスマホの時代になり、「どこに行ってもセルフィー」状態が加速し、「世界で一番セルフィー死亡率が高い国」と言われるようになってしまった。本作で言及されているように、おびただしい電波が飛び交い、中には繋がりやすいように国の規定を超えた電波を飛ばしている携帯会社もあるだろう。そんな社会への風刺や警告を盛り込んでいるといえよう。

ということで、前作超えの続編は難しい。新たな敵を作ってシリーズ化するとマンネリ化してしまう。そんなことを考えてしまったこの続編だった。期待が高すぎたのかな。
★★★

●映画の背景
映画の舞台となるのはチェンナイだが、事件の発端となるのはチェンナイ郊外、マハーバリプラム(マーマッラプラム)へ行く途中にある寺院の町ティルカールクンドラムだ。ここで博士はスマホが集合した怪鳥に襲われるのだが、なぜ鳥かという理由は映画の中で明かされる理由の他に、このティルカールクンドラムという地がある。
ここはチェンナイでは有名な巡礼地のひとつで、町を見下ろす丘上にあるヴェーダギリーシュワル寺院には毎日正午になると遠く聖地ワーラシー(ベナレス)から二羽のワシEgyptian Vultureが飛んできてここのバラモン僧から餌をもらうといわれている(ワシというよりはタカかもしれない)。日本の解説には書いていなかったが、今回の悪役のイメージは、この鳥にそって作られていると思う。タミルの人なら、この寺のワシの話は知っていると思う。

2019年10月12日土曜日

第三夫人と髪飾り




19世紀、北ベトナムの山間の里。富豪のもとに嫁いできた14歳の第三夫人。
トラン・アン・ユン監督の美学を受け継ぐ新たな才能によるファミリー・ヒストリー。


Vợ BaThe Third Wife)
2018年/ベトナム

監督・脚本:アッシュ・メイフェア
出演:トラン・ヌー・イエン・ケー、グエン・フオン・チャーミー、マイ・トゥー・フォン、グエン・ニュー・クイン、レ・ヴー・ロン
配給:クレストインターナショナル
公開:10月11日(金)Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー

■ストーリー

19世紀末の北ベトナム。14歳のメイはその土地を治める富豪の元に、三番目の夫人として嫁いでくる。第一夫人・ハ(トラン・ヌー・イエン・ケー)には息子が1人、第二夫人スアンには娘が3人。一族にはさらなる男児の誕生が待たれていた。ランタンがともる華やかな祝宴の後、メイは初夜の儀式に臨む…。

■レビュー

昨年10月、国際交流基金アジアセンターの招きでトラン・アン・ユン監督が来日した際、長編処女作『青いパパイヤの香り』('93)の上映と監督夫妻によるトークショーを観る機会があった。映画を観るのは劇場公開以来で、実に25年以上ぶりになるが、その魅力は全く色褪せていなかった。トークショーでは、近年トラン監督がベトナムでワークショップを行い、若手育成にも力を注いでることが伝えられ、その「一番の成果」として挙げていたのがこのアッシュ・メイフェア監督の初長編作『第三夫人と髪飾り』という作品だった。トラン監督自身、美術監修としてクレジットされている。一体どんな作品なのだろう?観るのを心待ちにしていた。
                   *

舞台は19世紀末の北ベトナム。14歳の少女メイはその土地の富豪の家に第三夫人として迎えられる。父親ほど歳の離れた主人にセックスで仕え、品格のある第一夫人、子煩悩な第二夫人らと交流しながら性技や所作を学んでいく。子を身籠った事でメイは一人前に扱われるようになる。
 女性は跡継ぎの男子を産む事を第一の義務とされ、「子供のときは父親に、結婚したら夫に、老いたら長男に従え」という「三従の道」を強要された時代の話である。メイのほか、第一夫人の息子の結婚相手・幼妻トゥエットのエピソードは象徴的だ。1945年の独立後まで続いていたという一夫多妻制。アッシュ監督は自身の曾祖母の体験を元にこの脚本を書いたという。

ところで、この作品は導入部からして『青いパパイヤの香り』を思い出させる。10歳のムイという少女が奉公人としてサイゴンの資産家に連れてこられるシーン、ムイの目線で一家を覗き見るという様子がよく似てるのだ。その後、主人公ムイは成長し洋行帰りの音楽家と恋に落ちる。本作とは対照的に「自由恋愛」が描かれている。時代設定は1960年代だ。パリのスタジオセットで撮影され、ジョルジュ・バルビエの絵のようなエキゾチシズムを強調したような画面も特徴的だった。ムイを演じたのは、本作で貫禄ある第一夫人を演じたトラン・ヌー・イエン・ケーである。カメラの被写体の捉え方、性の比喩的な表現にも共通点を感じる。このあたりがトラン監督の美術監修の所以だろうか。

一方、本作『第三夫人と髪飾り』はオールロケ。場所は「陸のハロン湾」と呼ばれるベトナム8番目の世界遺産、チャンアンだ。スタッフ・キャストは数ヶ月に渡りそこで生活し、地元の慣習や生活を観察した上で、撮影に臨んだという。その色彩は淡い水墨画(トウイ・マック)のようだったり、森の中のシーンなどはルノワールのような印象派の絵を思わせる。自然や大地の中に、人間の営みが描かれているといった風である。女性たちの苦しみを別にすれば、どこか桃源郷のような風景に見える。

特筆すべきは、女性監督ならではというべきか、さまざまな年代・境遇の女たちを俎上に「女性性」を追求しているところだろうか。驚かされたのは、主人公メイが妊娠した後に、第二夫人スアンに抱く感情である。お腹の大きい妊婦にこんなことがあるのだろうか?と思うシーンだが、ジェンダー~社会制度とセクシュアリティの問題に深く切り込むシーンだと思う。
 男尊女卑という古い時代の名残りが現代にも存在するように、曾祖母の時代から監督自身に受け継がれているものを、酸いも甘いも余す事なく伝えているように見える。ある種のエスノグラフィだともいえる。トラン・アン・ユンの美学を受け継ぐ新しい才能に今後も注目だ。
(カネコマサアキ★★★☆)