2015年12月20日日曜日

消えた声が、その名を呼ぶ


The Cut

離れてしまった家族を探しに、トルコからシリア、キューバを経てアメリカへ。
20世紀初頭のアルメニア人虐殺を背景に、男は旅を続ける。




2014
監督:ファティ・アキン
出演:タハール・ラヒム、セヴァン・ステファン
配給:ビターズ・エンド
上映時間:138
公開:1226日より角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか

●ストーリー

1915年、オスマン帝国東南部にある町マルディン。アルメニア人鍛冶職人のナザレットは、ある日家族から引き離され、兵士たちに強制連行される。時は第一次世界大戦下。アルメニア人の独立を怖れた政府によって、国内に住むアルメニア人は虐殺されたり、強制収容所に入れられたりしていた。かろうじて助かったナザレットだが、喉の負傷により声を失う。戦争が終わり、娘たちが生きていることを知ったナザレットは再会を願い、キューバ、そしてアメリカへと旅を続ける。

●レヴュー

第二次世界大戦時のユダヤ人に対するジェノサイド(大量虐殺)については知る人も多いが(教科書にも載っている)、それに比べると日本ではあまり知られていないのが、第一次世界大戦時にトルコで起きたアルメニア人に対するジェノサイド(大量虐殺)だ。こちらは現在のトルコ政府は認めていなし、トルコと友好関係を大事にしたい日本政府も認めていないので、日本の世界史の教科書には掲載されることはない。また、この事件を扱った映画もほとんど作られることもなかったので、映画ファンも知ることがない。そんな意味で、ドイツに住むトルコ系移民二世である、ファティ・アキン監督がこの事件を取り上げたことは、トルコ国内でかなりの論議を呼んだことだろう。たとえて言うなら、アメリカに移住した日系二世が、南京大虐殺で生き残った中国人を主人公にした映画を撮るようなものだ。

映画では、「なぜアルメニア人への虐殺が行われたか」の原因については詳しくは触れない。政治的な問題は、いまだ解決していないからだ。ただ、第一次世界大戦時、トルコ国民として暮らしていたアルメニア人の一家が離散したという事実を描写して行く。現在のトルコ共和国は「多民族国家」を否定することからスタートしたが(国を作る時に「トルコ人」の定義を確立しなければならなかったほど)、当時のトルコはさまざまな宗教や民族が暮らす多民族国家だった。

映画は、現在のトルコ東南部の町、マルディンに住んでいたナザレットの目を通して、アルメニア人たちがどのような迫害を受け、そして世界に離散して行ったかが描かれる。映画がいいのは、いくら本で読んで知っていたことでも、当時の様子を再現した映像が見られるということ。“できごと”は本でわかっても、実際の土地の空気感は映像で見た方が感覚的にわかりやすい。画面からは、20年前に私がこのトルコ東南部やシリア北部を旅した時にも感じたものを感じた(今でも変わっていないのかもしれない)。強制労働に徴発されたアルメニア人たち、そして凄惨な虐殺、強制収容所で死んで行く人々…。家族を失い、声を失い、生きる目的を失った主人公が、アレッポの町で初めて見た映画、チャップリンの『キッド』(1921)を見たことから、偶然、娘たちが生きていることを知る。ここは「映画を通じて何かができるのではないか」という希望が込められている。また、映画は、「●●人だから悪い」という画一的な見方を避けている。主人公が助かったのも、たまたま処刑を命じられたトルコ人(クルド人)が人を殺すことに罪悪感を感じたからだし、彼がその後生きながらえたのも、親切なアラブ人がいたからだ。

娘を探して、レバノン、そしてキューバへ向かう主人公。住む場所を失ったアルメニア人が、当時、目指したのは陸路でも行ける革命後のソ連やアルメニア、そして移民を受け入れているアメリカだった。そのアメリカへはキューバを経由して行くことが多かったようだ(当時のキューバはアメリカの保護国のようなものだった)。物語の後半は、言葉もままならないアメリカでの旅。当時、アメリカにアルメニア人のコミュニティがあった事実も興味深い。10年ほど前にアルメニアの首都エレヴァンに行った事があるが、アメリカ(人)の援助で建てられた建物や作られた機関があり、その結びつきに驚いたが、アメリカに移民し、そしてアルメニア共和国の独立と共に戻ってきたアルメニア人がいることを知れば納得だ。現在も、アメリカには48万人のアルメニア人がいるという。

信じられるのは、そのときの状況によって変わる国ではなく、家族だけ。主人公、ナザレットにとって故郷はもはやトルコやアルメニアにあるのではなく、家族がいる場所なのだ。「帰巣本能」があるとすれば、生まれた所に戻るのではなく、アメリカの娘がいる場所に“戻らなくては”ならない。本作の時代背景は複雑だが、話の骨子としては非常にシンプルなものだ。なので、僕のような“歴史好き”はついつい背景の方に目がいってしまって、ストーリーに没頭できないが(笑)、難しい話ではないので、みなさんも知識を広げるきっかけとしてこの映画を見てみるといいかもしれない。★★★☆

●関連情報

・第71回ヴェネチア国際映画祭 ヤング審査員特別賞
・共同脚本のマルディク・マーティンは、アメリカに暮らすイラク生まれのアルメニア系移民。スコセッシ監督の『ミーン・ストリート』『レイジング・ブル』などの脚本家として知られている。

2015年12月11日金曜日

ひつじ村の兄弟


Rams

アイスランドの自然の中で、疎遠な老兄弟がひつじを救う目的で、絆を取り戻して行く



2014
監督:グリームル・ハゥコーナルソン
出演:シグルヅル・シグルヨンソン、テオドル・ユーリウソン
配給:エスパース・サロウ
上映時間:93
公開:1219日より新宿武蔵野館ほか
公式ページ: http://dokusaisha.jp/


●ストーリー

アイスランドの辺境の村に住む老兄弟のグミーとキディーは、家も敷地も隣同士なのに、40年間、口もきかない絶縁状態だった。彼らの育てたヒツジは国内随一の優良種とされており、独身のふたりは生活のすべてをヒツジに賭けていた。その年、村のヒツジコンテストでは兄のキディーが1等、弟のグミーが2等だったが、グミーはキディーのヒツジに異変が起きていることに気づく。やがてそのヒツジは治る見込みのない伝染病に犯されていたことがわかり、その地域のヒツジすべてが殺処分されることになる。断絶していた兄弟が、ヒツジを救いたい一心で再び結びつく。

●レヴュー

すみません! かわいらしいタイトルやビジュアルから、モフモフしたヒツジとホッコリしたおじいさんたちの、のほほんとした話だと見くびってました。キャッチコピーの「まじめでおかしな大騒動」はまちがっていなけれど、そんなんじゃなくて、もうとても厳しい、そして苦しい話だった。

私たちはときどき、鳥インフルエンザや狂牛病などで多くの家畜が殺処分されるニュースを目にする。いずれ食べられる家畜だとしても、飼い主は手塩にかけて育てているはずだ。きっと心が引き裂かれるような気持ちだろう。そして、伝染病を防ぐため、疑わしきものはすべて殺すという、本当に人間勝手な仕打ち。もし伝染病にかかった人間が見つかって、その地域の人間が全部殺されたらと思うと、ゾッとする。できれば、隔離してもいいから、寿命までは生きさせてあげたいと思う。

本作の主人公となる老兄弟には、ほかには家族がいないのに、口もきかない険悪な仲だ。直接会話しないので、手紙をいちいち犬に運ばせる所がおかしいもっとも最後に口をきいたのは40年前で、本人たちも何が原因かうろ覚えのようだ。そんな孤独に生きているふたりにはヒツジがすべて。もちろん優良な種を代々育てているという自負もある。それが全頭処分だなんて納得できないだろう。そこで、ふたりが取った行動は異なるが、それぞれヒツジを守ろうとするものだった。たとえそれは犯罪でも。

動物好きには、このヒツジを処分しなければならないシーンですでに辛いだろう。そして苦しむ老人の姿も辛い。だから、彼らの取る行動がまちがっていて、悲劇を招くしかないとわかっていても、何とかこの老人たちに救いを与えて欲しくなるのだ。後はもう、画面を見ているうちにぼーっとして終ってしまった。まったく予期せぬ、終り方だった。どうなるんだ。
たぶん、この映画を観に来た人は、甘いデザートを食べに来たら、和風醤油味のせんべいを出されたように驚くだろう。現代の話だが、神話的な雰囲気さえ漂うエンディングだった。ということで、かわいらしい映画ではありません! ヒツジはかわいいけれど。
★★★☆

●関連情報

・第68回カンヌ国際映画祭 ある視点部門グランプリ
・日本ではR15指定公開だが、残酷なシーンやエロいシーンはない。ではどうして?というと、このおじいさんの全裸シーンがダメなようだ。お風呂入っていてあわてて出てきたりとか…。って誰が欲情するんだよっ!

2015年12月8日火曜日

独裁者と小さな孫


The President


『カンダハール』のマフマルバフ監督が、独裁者が治める架空の国の崩壊を寓話的に描く




2014
監督:モフセン・マフマルバフ(『カンダハール』『パンと植木鉢』
出演:ミシャ・ゴミアシュウィリ5デイズ』、ダチ・オルウェラシュウィリ
配給:シンカ
上映時間:119
公開:1212日より新宿武蔵野館にて
公式ページ: http://dokusaisha.jp/


●ストーリー

独裁者の大統領が支配する小国があった。大統領は反対派を武力で押さえ込み、貧しい国民の生活を尻目に自分とその家族は、贅沢な暮らしをしていた。しかしある日、クーデターが起き、大統領とその幼い孫は脱出に失敗する。見つかれば国民に殺されると、大統領は孫と共に国内で逃亡を続ける。しかしそこで二人が目にしたものは、混乱と暴力が支配する世界だった。

●レヴュー

イランの映画監督モフセン・マフマルバフは、1990年代においては世界でもっとも重要な監督のひとりだった。日本では『カンダハール』がよく知られているが、最高傑作は『パンと植木鉢』(1996。これはマフマルバフが若い頃、革命運動に参加し、警官を刺して逮捕された事件を、俳優や実際の当事者たちによった再現したメタ構造の作品。自分が参加した“熱狂”を客観的にみようという試みでもあった(すでにこの時に暴力による解決にNOを突きつけている)。ところが、2000年代以降はあまり作品を発表しなくなってくる。どうしたのかなと思っていたら、実はイラン本国では映画が撮れなくなり、ヨーロッパで亡命生活を送っているとのことだった。かつては「イランの国民的映画監督」と呼ばれ、大人気だった彼でもイランには住めなくなったのだ。そんな彼の新作が久々に届けられた。

新作『独裁者と小さな孫』は、そんな彼の“想い”も詰まった、“いま”の世界を映し出した寓話だ。舞台は架空の国(ロケはジョージアのトビリシやその周辺)だが、独裁者が支配するどの国にもあてはまるだろう。人々を圧政で弾圧した大統領は、他の国の独裁者と同様、人々の怒りが爆発するまで、革命が迫っていることに気がつかない。大統領の宮殿や身辺が戯画的に描かれているのはいかにもマフマルバフ監督らしいが、その後の町なかで大統領の乗った車が民衆に襲われるモブシーンは、今までの彼の作品になかったようなリアル指向の迫力だ。そして部下に逃げられた大統領は、生きるために変装し、孫と共に国内を逃げ回ることになる。

それまで人々をさんざん苦しめていた大統領だが、小さな孫の前ではただの“おじいちゃん”である。そしてこの孫は、独裁者になる前の、かつての無垢な時代の大統領の姿だ。この大統領、世間一般では極悪人なのだろうが、かつてはそれなりの理想を持っていたのだろう。しかし権力を手にしたあとは、それを守るために多くのことを封じ込めた。それを世の中を目にした孫が、「どうして」「なぜ」と問いかけてくることによって思い出して行くのだ。

大統領と孫が逃亡中の国内で目にするのは、大統領が国民にしてきた暴力が、ウィルスのように国内に蔓延してしまった世界だ。革命は権力者を倒したその暴力を、今度は国民に向かって向ける。無秩序の中で略奪や虐殺が次々と行われて行く。しかし、その暴力のもとを作ったのは、大統領なのだ。独裁者を殺せば、平和な社会が生まれるのか。暴力の連鎖を断ち切るにはどうしたらいいか。その答えを出すのが難しいのは、この数十年で倒れた独裁国家のその後に混迷を見ればわかるだろう。しかし、自分の運命は誰かに任せるのではなく、それぞれが考えていかねばならない。本作がマフマルバフの過去作に比べて多少歯切れが悪く感じるのは、そうした、「解決していない問題」だからかもしれない。(★★★☆

●関連情報

2014年の東京フィルメックスで観客賞を受賞。

2015年12月6日日曜日

A FILM ABOUT COFFEE


A Film about Coffee 

おいしいコーヒーはどこから来る? スペシャルティコーヒーが私たちの口に届くまでを描くドキュメンタリー




2014
監督:ブランドン・ローパー
出演:ダリン・ダニエル、マイケル・フィリップス、ジェームス・フリーマン、大坊勝次、田中勝幸
上映時間:66
配給:メジロフィルムズ
公開:1212日より新宿シネマカリテほか

●レヴュー 

まず、最初に。僕はいま話題のスペシャルティコーヒーを飲みに行ったことがない。コーヒーは毎日飲んでいて、コーヒーなしにはきっとイライラしてしまうが、かといってものすごくこだわりがある訳ではないのだ。それでもここ2年は、家ではインスタントはほとんど飲まず、ドリップコーヒーを飲むようになった程度のコーヒー好きだ。なぜ、最初にこのことを書くとかというと、このドキュメンタリーの評価は、その人のふだんのコーヒー生活によってかなり変わるかと思うからだ。

映画はとくに奇をてらったことがない。コーヒーの歴史は簡単に述べられ、現在のスペシャルティコーヒーの現状を、解説してくれる。きちんと品質管理された状態で、一杯一杯手で入れたコーヒー。大量生産では味わえない、味や品質、そして口に入るまで気配りが行き届いたコーヒーのことだ。その分、当然だがお値段は高くなるのだが。そして日本でも話題になったブルーボトルコーヒー、バリスタ世界コンテストの、アフリカや中南米のコーヒー農園、そして日本の“こだわり”のカフェも映し出される。いや、最初は日本が出資したのかと思うほど、日本のバリスタに対しての評価はこの映画の中では驚くほど高い。とくに「別格」的な感じで紹介されるのが、今は閉店した南青山の「大坊珈琲店」の大坊さんによるコーヒーをいれるシーン。監督は日本通なのか、このコーヒー店の存在を知り、2013年の閉店前に撮影していたという。ほかにも下北沢のコーヒー店「ベアボンド・エスプレッソ」などが紹介される。

映画は、スペシャルティコーヒーを解説した映像付きの新書を読んでいる雰囲気だ。66分という長さも、手軽に読める新書と同じ感じだ。なので、とくにドラマというのもなく、“映画”としては評価しづらいが、ふつうのコーヒー好きの僕でもためになる点はあった。1970年代の喫茶店文化ではおなじみだった、コーヒーのサイフォンがカウンターに並ぶ日本のコーヒー専門店、あれが見直されているのかなと。アメリカでは一部のコーヒー店にはあったのかもしれないが、ああやって一杯一杯おもてなしのように出すという文化ではなく、それが「日本らしい」と高く評価されたのだろう。もちろん、生産農家から直接買い付けができるのは21世紀の“いま”だからで(70年代もできたろうが手間がかかった)、できるならやらない手はない。

あとは、僕は旅の合間に世界各地のコーヒー農園を垣間見ることはあったが、その収穫から流通までをこうして映像で見ることはなかった。1本の木から採れる豆は450グラム。それを一個一個手摘みし、複雑な行程を経て、豆として出荷される。その仕事量を見ているとを本当に手間がかかるんだなあと思う。もちろん、大量生産されているコーヒーは機械化が進んでいて、いい豆もダメな豆も一緒くたにしていているのだろう。しかし、この映画で紹介されるコーヒーは、紹介されるぐらいだから、きちんと品質管理(かといって近代的な工場ではなく納屋みたいな所だが)し、バイヤーが現地に出向いてチェックしている姿を見せる。確かに、中間業者を抜けば、生産者の利益は上がる訳だし、またそれまで「誰がコーヒーを飲むか」なんて想像もしなかった生産者たちも、小売店(コーヒー店)の人が来て、目の前で自分の農園のコーヒーをドリップして飲ませてくれれば、やる気も起きると言うものだ。しかし意地悪く見れば、先進国のニーズが生産国のモノカルチャー化を生んでいる流通の仕組みを、とてもわかりやすく見せてくれている映画ともいえる。かつて生産品を独占していた大企業や財閥ではなく、一般の人、それぞれがいまや直結していて、顔が見えるのが、現代なのだ。しかし顔が見えればこそ、「敬意を払おう」とお互いに思えるのではないか。

この「スペシャルティコーヒー」は一過性のブームなのか、また文化として定着するのかは僕にはわからない。ブームが去っても、好きな人には残る、といった類いのものかもしれない。しかし、こうしたところに“こだわる”のは、日本人の気質にはとても合っているんだろう。その精神性の代表として、「大坊珈琲店」で大坊さんがコーヒーを淹れるシーンの長回しがが、映画の流れをぶった切っても、途中に挟み込まれるのだ。★★★