2016年12月16日金曜日

ニーゼと光のアトリエ


Nise

患者に絵筆を持たせた、ブラジルに実在した精神科医とその治療を描いた作品



2015/ブラジル

監督:ホベルト・ベリネール
出演:グロリア・ピレス、シモーネ・マゼール
配給:ココロヲ・動かす・映画社○
公開:1217日よりユーロスペース
公式HPhttp://maru-movie.com/nise.html

●ストーリー

1943年のブラジルのリオデジャネイロ。医師のニーゼはかつて働いていた病院に戻ってきた。
彼女がいなくなっていた数年の間に、同僚たちはロボトミー手術やショック療法などの暴力的な治療を行うようになっていた。
それを拒否したニーゼは、担当者がいない作業療法の部署に回される。最初はなすすべもなかったニーゼだが、やがて患者が絵の具を使って絵画を描くアトリエをオープン。
ユングに影響を受けたニーゼは、患者たちが描く絵が“無意識の現れ”ではないかと考えるようになる。
最初は乱雑だった患者たちの絵も、しだいに変化していった。
しかしそんな対処療法は病院内で反発を生んでいくことになる。

●レヴュー

ニーゼは実在の人物で、この映画も実話を基にしている。
冒頭、窓がない建物にニーゼがやってきて、入り口のドアを何度もしつこいぐらい叩いて、ようやく中に入れてもらう。
当時の社会、そしてそれに負けないニーゼの性格を暗示したものになっている見事な導入部だ。

ニーゼは自分が病院を留守にしていた間、統合失調症などの患者に、電気ショックやロボトミー手術という当時では最先端の“科学的な”治療が行なわれていることを知り、また同僚の医師たちがそれを進んで取り入れていたことに愕然とする。
それはどう見ても、患者たちの人権を奪う、残酷なものだった。

この当時の精神病の治療は、患者のためにというより、周りにいる人たちが楽になるためだったこともある。
まだ向精神薬の開発も進んでいなかったころだ。
興奮する患者を病院に押し込め、さらに外科手術で無気力な状態にする。
それが許されるのは、患者たちを人間としてみていない、あるいは劣った存在としてみているからだ。医師も世間も。

映画では語られていないが、ニーゼが病院に戻ってくるのは1943年。
第二次世界大戦中で、当時のブラジルはヴァルガス大統領によるファシズム独裁体制だった。
ヴァルガスはドイツやイタリアを真似た全体主義で、反対派の追放や投獄を行った。
ニーゼもその対象になり、病院を追われていたようだ。
つまり社会全体が、少数派に対して非寛容になっていた。精神病院はその縮図ともいえよう。
社会の迷惑になるものは、排除するか力を奪ってしまえばいいと。しかし「社会」ってなんだ?

そんな中、ニーゼはアートを通して、患者たちの心の内を知ろうとする。
絵画を学んだことがなく、知能も劣るとみなされていた患者たちだが、彼らが描いた絵は当初は乱雑だったものの、やがて目的のあるものに変わっていく。つまり変化していくのだ。
「それは治療なのか?」と同僚は問う。ニーゼは「わからない」と答える。
ただし治すことはできなくても、アートは患者に寄り添うことができる。
“治す”なんておこがましい。ただ、“生きやすく”することはできるかもしれない。

人が病気になるのは理由がある。
もしかしたら精神病になるのも意味があるのかもしれず、治すべきと考えるのは患者のためでなく、面倒を回避したい私たちのためにそう言っているだけではないのか。
少しはましになったが、21世紀になっても、自分のわからないもの、自分と違うものを排除しようとする世の中は続いている。
相模原の施設で起きた事件は、そんな“今の日本”を暴いて見せたように思える。最悪の結果で。
今でこそ、私たちはこの映画を見るべきなのかもしれない。

★★★☆前原利行

●映画の背景
今では想像もつかないことだろうが、脳の一部を切除するロボトミー手術は1960年代までは世界的によく行われていた。
僕が知ったのは映画『カッコーの巣の上で』だったが、もちろん日本でも積極的に行われていた。
たとえばこの外科的手術により、興奮したり攻撃的な感情を抑えたりすることができるということだが、副作用も多かった。
しかし1940年代にはこれは画期的な療法とされ、初めて前頭葉切除の手術を行ったポルトガルの医師モニスに、1949年にノーベル生理学・医学賞が与えられたほどだった。しかしこれはのちに「人体実験」に近かったことや、モニスも手術を行った患者に銃撃される事件も起き、廃れていくことになる。

・日本では第二次世界大戦中、戦後と、1975年に廃止されるまでロボトミー手術はよく行われていた。日本でも同意のないまま手術を受けた患者が、医師の家族を殺した事件も起きている(ロボトミー殺人事件)。

・アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディの妹ローズマリーも、ロボトミー手術を父により受けさせられていた。

・「ロボトミー」というと、「人間をロボットのようにしてしまう」こからつけられた名前かと僕も思っていたが、これはまちがいで、「葉(臓器の一部の単位のlobe)」の塊を切除するということから付いた名。

●関連情報
28回東京国際映画祭グランプリ&最優秀女優賞受賞作品。

2016年10月29日土曜日

彷徨える河

コロンビアのシーロ・ゲーラ監督が描く、アマゾンを舞台にした失われゆくものの物語


El abrazo de la serpiente

2015年/コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン

監督:シーロ・ゲーラ
脚本:シーロ・ゲーラ、ジャック・トゥールモンド
出演:ヤン・ベイヴート、ブリオン・デイビス、アントニオ・ボリバル・サルバドール
配給:トレノバ、ディレクターズ・ユニブ
上映時間:124分
公開:2016年10月29日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

●ストーリー

 アマゾン流域の奥深いジャングル。侵略者によって滅ぼされた先住民族唯一の生き残りとして、他者と交わることなく孤独に生きているシャーマンのカラマカテ。ある日、彼を頼って、重篤な病に侵されたドイツ人民族誌学者がやってくる。白人を忌み嫌うカラマカテ は一度は治療を拒否するが、病を治す唯一の手段となる幻の聖なる植物ヤクルナを求めて、カヌーを漕ぎ出す。数十年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテは、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者との出会いによって再び旅に出る。過去と現在、二つの時が交錯する中で、カラマカテたちは、狂気、幻影、混沌が蔓延するアマゾンの 深部を遡上する。闇の奥にあるものとは...

●レビュー

 アマゾン流域の広がる奥深いジャングルは、他の世界と隔絶して暮らす先住民もいて「未開の地」と言われている場所。その過去に何があったのか私はほとんど何も知らなかったと思う。『彷徨える河』という物語は、アマゾンの姿をスピリチュアルな世界観で捉え、その地に根付く精神世界を見せながら、闇に紛れてきたその歴史の一端を明らかにしてくれる。

 物語には、時代も国籍も異なるふたりの白人探検家とアマゾンで生き残った先住民族の男が登場する。ヤクルナと言う幻の植物を求めてアマゾンに分け入ったふたりの白人の探検家が、若き日の先住民でシャーマンのカラマカテと年老いたカラマカテ訪ねるという、二つの時間軸によって物語は紡がれる。カラマカテがそれぞれの男と一緒にカヌーを漕ぎ、アマゾン深部へ遡上するのだが、二つの時間と記憶の交錯によって、観客はアマゾンの深遠な世界に引きずり込まれていく。モノクロームの美しい映像がその様相により一層の深みを増している。

  20世紀の最初にアマゾンに足を踏み入れた実在のドイツ人の民俗学者とその30年後にアマゾンを探検したアメリカ人植物学者の手記に触発されて書かれたこのストーリーは、フィクションではあるが事実を織り交ぜていてとても興味深い手法になっている。さらに、時代の違う二人の探検家の目線に加え、クルーを率いてアマゾンに入った監督自身の視線が三つ目の視線になっていると気づく。二人の探検家とともに、カラマテカがアマゾンの奥地へ分け入ることで、失っていた自身の記憶を取り戻していくのだが、それはすなわち、私たちがアマゾンの闇の記憶を掘り起こすことになる。監督自身が語っているように、先住民の目線で語ることが最も重要なことだ。アマゾンの歴史とその記憶を通じて、私たちの世界観とは異なる習慣や掟で成り立ってきたアマゾンというの存在をこの作品は再認識させてくれる。そして、私たちが失ってしまったものが何かを示唆してくれている。

 監督は、近年世界的な注目を受けているコロンビアのシーロ・ゲーラ。本作は2015年にカンヌ国際映画祭で監督週間芸術映画賞を受賞。2016年ののアカデミー賞外国語映画賞でもコロンビア史上初めてノミネートされ、高い評価を受けている。老いたカラマテカを演じたアントニオ・ボリバル・サルバドールもオカイナ族最後の一人で、彼の出演が本作品により一層のリアリティーをもたらしている。★★★☆)加賀美まき

2016年10月19日水曜日

奇蹟がくれた数式


The Man Who Knew Infinity

 20世紀初頭、若きインドの天才数学者が海を渡り、英国の教授と数式の謎に挑む

 

2016年/イギリス
監督:マシュー・ブラウン
出演:デヴ・パテル(『スラムドッグ$ミリオネア』『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』)、ジェレミー・アイアンズ(『運命の逆転』『ミッション』)、トビー・ジョーンズ (『裏切りのサーカス』)
配給:KADOKAWA
公開:1022日より角川シネマ有楽町ほか

 ●ストーリー 

1914年、インドのマドラスで働く青年ラマヌジャンが出した手紙が、イギリスのケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教授を務めるハーディの元に届いた。その手紙に書かれていた大きな数学的発見を目にしたハーディは、ラマヌジャンの才能を見抜き、彼をケンブリッジへと呼び寄せる。ほぼ独学で数学を学んだラマヌジャンだが、ハーディは大きな才能を秘めているのを見抜いたのだ。妻と母をインドに残し、単身ケンブリッジに向かったラマヌジャンだが、“直感”に基づく彼の数式は、論理的な証明をすることができなかった。ハーディはラマヌジャンに数式の証明を促すが、なかなかそれを説明することはできない。ラマヌジャンは、次第に孤独に追い詰められていく。

●レヴュー 

「数学者」というと最も映画になりにくい題材のように思えるが、数学者ジョン・ナッシュを描いた『ピューティフル・マインド』(アカデミー作品賞)や、数学の才能を持った青年を描いた『グッド・ウィル・ハンティング』などもあるし、数学ではないがホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』などもあった。また、悲劇の数学者チューリングを描いた『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』も面白かった。

本作はそうした流れを受けつつ、インド以外では知られていない、夭折の数学者ラマヌジャンを取り上げたところが面白い。僕も10年前に、担当していた某ガイドブックのコラムで取り上げるまでは彼の存在を知らなかった。南インドのクンバーコナムという町についての原稿を書いていた時に、ラマヌジャンの名が出てきたのだ。

彼の生い立ちや業績は、各自ググっていただくとして、映画の多くを占めるのは彼のイギリスでの留学時代で、彼と指導者であるハーディ教授との師弟関係を中心に語られる。ラマヌジャンはインドの敬虔なバラモンの家庭に生まれた。しかし母親と結婚したばかりの妻を養うため、研究に勤しむ事もままならずに、日々働くしかなかった。彼を研究に駆り立てたのは何だったのか。

私は数学にはとんと疎く、数式を見てもさっぱりわからないが、数学をしている人に聞くと感性は大事だという。映画では彼の数学的発見の理由を“直感”ともしているが、ラマヌジャンはそれを“女神の導き”とも表現していた。つまり自分の直感は、神が与えてくれたという事だ。私たちも日々暮らしていて、理由なしに直感で感じてしまう事がままある。もちろん、数学は印象ではないが、数字に驚くほど精通していた彼にとって、すべての数字には意味があって存在しているものなのだ。意味のないものはない。

しかし彼の指導者であり、もう一人の主人公であるハーディには、それが理解できない。ハーディは無神論者であるだけでなく、人の悩みや様子に気づかない、“ニブい”男なのだ。しかし彼も学者で、真理を知りたい気持ちはラヌマジャンとなんら変わる事がない。そんなある意味イギリス的な、世渡り下手な初老の教授を演じているのは『ミッション』などの名優ジェレミー・アイアンズ。最近、力が抜けてきて、いい感じになってきているが、ここでもそんな役をうまく演じている。

映画は、そんな年齢も国籍も考え方も違う2人が、人間として向き合える関係を築くまでの物語。なので、スリリングな展開やミステリー風味はない。20世紀初頭のケンブリッジ大学の雰囲気も興味深い。誠実な造りだが、無難な展開や着地点なので、あまり印象に残らない出来になってしまったのも確か。悪くはないが上品にまとめすぎたかな。
★★★前原利行

2016年10月11日火曜日

とうもろこしの島


人里離れた山間の川の中州に、とうもろこしを植えて収穫を待つ老人とその孫娘。しかしそこにも戦争の影が迫っていた




 Simindis Kundzli
2014

監督:ギオルギ・オヴァシュヴィリ
出演:イリアス・サルマン、マリアム・ブトゥリシュヴィリ
配給:ハーク
公開:917日より1111日まで岩波ホールにて公開中

●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部のアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。一方、戦争から遠く離れた山間の川では、毎年春先になると雪解け水によって川の中洲に島が生まれていた。今年もどこからかアブハズ人の老人が新しくできた島にやってきた。この土地では、そんな肥沃な土地でとうもろこしを作流のが習慣だからだ。老人は小屋を作り、土を耕して種をまく。戦争で両親を失った孫娘も一緒だ。ときおり、両軍の兵士たちが川をボートで行き来し、両岸でにらみ合うこともあるが、老人たちには関心を示さない。とうもろこしは成長していくが、老人たちはその畑の中で傷を負ったジョージア兵を発見する。


●レヴュー

1992年にジョージア(グルジア)で起きたアブハジア紛争を描く映画の連続上映の1本。もう1本は『みかんの丘』で、これも同時公開中だ。そちらでも解説したが、アブハジア紛争はソ連邦が解体してジョージアがソ連から離れていくと、ジョージア内の自治共和国がさらに分離していくという、独立の入れ子構造のような戦争だった。『みかんの丘』でも触れたが、この戦争は元は同じ国民が殺し合う救われない戦いだった。

しかしこの映画はそうした戦争の背景の説明を一切排し、登場人物にも主張をさせない。中洲にできた島にまず老人がやってきて黙々と小屋を建て始め、そこに孫娘が加わる。二人とも寡黙で、特に前半は会話もほとんどない(少女は話せないのかと思ってしまったほどだ)。そのため、この映画は時代背景もわからない、どこか現実離れした寓話の趣さえ見せるが、ときおり通り過ぎる兵士たちが外の世界と戦争の影を落としていく。

季節は進み、とうもろこしは成長して収穫の時期を待つ。その生命の力強さと対照的に、常に“死”の影を背負う兵士たち。しかし傷ついた兵士を目の前にすれば、老人はただ命を助けるだけだ。戦争は老人と子供しかいない世界を生む。孫娘が心動かされる相手は、もはや世界には傷ついた兵士しか残っていない。

両岸で睨みあう兵士たちがいる。とすればこの川の中州の島は、どちらにも属さない平和な世界だが、そこには老人と子供しかいない。そしてその存在すら許されないかのように、そんな平和さえも川の濁流が奪っていく。この世界に、もはや平和な場所は残っていないのか。しかし、翌年になればまた、新たな島が生まれ、そこにとうもろこしを植える男がやってくる。世界はまた同じことを繰り返していくのだろうか。

美しい自然の中で、生命を育むことと奪うことを描くこの寓話は、きっと多くのことを考えさせてくれるはずだ。(★★★☆前原利行

 

■関連情報


2015年ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート

2016年9月2日金曜日

神聖なる一族 24人の娘たち


ロシア内にあるマリ・エル共和国に暮らす女性たち。彼女たちのおおらかな“生”と“性”を24のエピソードによって綴る





Celestial Wives of the Meadow Mari

2012年/ロシア



監督:アレクセイ・フェドルチェンコ

出演:ユーリア・アウグ、ヤーナ・エンポヴィッチ

配給:ノーム

公開:924日より渋谷シアターイメージフォーラムにて

公式HP24musume-movie.net


●ストーリー&レヴュー
ロシア西部のヴォルガ川流域に、古来の宗教や世界観が未だに残るマリ人が住む、
マリ・エル共和国がある。
キリスト教化、共産化したあとも、彼らの生活には自然崇拝的な古い習慣や風俗が残っているのだ。
本作はそこに暮らす女性たちによる、24のエピソードがつづられる。
エピソードにはすべて“O”から始まる女性の名前が付いており、
短いもので1分、長いもので10分、内容は女性と「性」にまつわるものが多い。
とはいえストーリーは現代の一コマのような現実的なものから民話的なもの、
オチがない不条理なもの、土俗的なものなど、多様だ。

理想的な夫を選ぶため、バケツいっぱいのキノコの形を調べる女性。
男の亡霊たちを呼び出し、裸で踊り出す女性たち。
夫の股間の匂いを嗅いで、浮気を確かめようとする女性。
貧弱な体の娘を布で拭いて、豊満な体にさせるまじないをする女性。
夫に思いを寄せる森の精霊に呪いをかけられ、
夫に股間を触られるとそこから鳥の鳴き声が聞こえてきてしまう女性…。
こう書くとエロチックを想像するだろうが、
実際には素朴な村の民話を聞いているような感じだ。
ただし民話なので、「オチ」がないものもたくさんある。
「え?どうなったの?」と思うと、もう画面は次のエピソードに移っている。
昔流行った、4コマの不条理マンガを、ずっと見ているような感じといえばわかるだろうか。

最初、僕はこの映画に出てくるマリ・エル共和国は、映画の中の架空の国だと思った。
で、調べてみたら、本当にあるので驚いた。
映画はそんな感じなので、ストーリーが面白いわけでも、感動があるわけでもない。
むしろ、狐につままれたような感じで見終わってしまう。
まあ、でもそれでいいのかもしれない。
きっとそれがこの国の魅力なのだ。
『愛おしき隣人』『散歩する惑星』などのスウェーデンの監督、
ロイ・アンダーソン監督作品が好きな人にオススメ。
★★★前原利行

2016年8月26日金曜日

みかんの丘


アブハジア紛争の中、辺境の村に残った老いたエストニア人。傷ついた敵同士がその家で暮らすうち、心を通わすようになるが…


Mandarinebi
2013年/エストニア、ジョージア

監督:ザザ・ウルシャゼ
出演:レムビット・ウルフサク、ギオルギ・ナカシゼ
配給:ハーク
公開:917日より岩波ホールにて(同時公開『とうもろこしの島』)


 ●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部にあるアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。そして戦場から遠く離れた山地の小さな集落にも、戦火が迫りつつあった。移住したエストニア人たちが暮らしていたこのみかん農園が広がる集落だが、紛争のため住民の多くは帰国し、残ったのは二人の老人、イヴォとマルガスだけだった。マルガスは実ったみかんの収穫が気になるが、イヴォはどこか上の空だ。ある日、彼らの家の前で戦闘が起き、イヴォは生き残った2人の兵士を自宅で介抱する。ひとりはアブハジアを支援するためにやってきたチェチェン人の傭兵アハメド、もうひとりはジョージアの若い兵士ニカだ。二人は快方に向かい、互いに相手への憎しみを抱きつつも、恩人のイヴォの家では決して殺し合わないことを約束した。しかし数日後、そこにアブハジアを支援するロシアの小隊がやってきた。

●レヴュー

仕事柄、ジョージアやアブハジアについては、知っている方かもしれないが、映画を見て原稿を書こうと調べ出すと、知らなかったことばかりだった。まず、本作の主人公とも言えるイヴォはエストニア人だ。バルト三国の一つとして知られるエストニアの人間がなぜアブハジアに?というところから始まるが、19世紀末から20世紀初頭に、エストニア人がバルト海沿岸から移住してきたという歴史があることに驚いた。それもロシアがアブハジアを征服した際、イスラム教徒のアブハズ人たちの半数近くがオスマン朝に移住を余儀なくされ、その結果、ロシア帝国内の様々な民族が移り住むことになったという。アブハズ人はジョージアの中では少数民族だが、その中にさらに少数民族が住んでいたのだ。

また、なぜチェチェン人のアハメドが義勇軍としてアブハジア側で戦っているかというと、アブハズ人はもともと北カフカス系の民族で、イスラム教徒が多かった(のちにキリスト教徒に転向したものもいたが)。ということで、イスラム教徒が多数であるチェチェン人が義勇軍としてくるのだが、映画を見ると、実際にはロシアとの戦いで実戦を積んだ傭兵としてのスカウトされたようだ。

少数民族の中の少数民族であるアフハジアのエストニア人からすれば、今回の紛争に対しては冷ややかな目で見るしかなかったのかもしれない。それに幾多の政変や戦争を見てきた老人にとってそれは一時的なものだが、大地の実りは毎年やってくるものなのだ。そして戦争は、いつでも若者が死ぬことで続けられる。老人からすれば子供か孫のような兵士たちが、家の前で撃ち合い、死んでいく。勝ち負けなどなんの意味もない。将来があったはずの人間が無駄に死んでいくだけだ

怪我の治療を受けるうち、最初は横暴な振る舞いをしていたチェチェン人のアハメドだが、自分を助けてくれた老人シヴォに恩義を感じ、故郷にいる家族を養うために傭兵になっていることを告げる。一方、ジョージア人の若者ニカは、劇団で役者を目指していたが、志願してここにやってきたことを告げる。戦争が終わったら、また舞台に立ちたいという。
最初は共に憎しみを感じ、老人イヴォのために嫌々協力していた二人だが、イヴォの家で過ごすうち、お互いがそれぞれ家族もいる血の通った人間であることに気づいていく。

この町からも戦場からも離れた人がいない集落というのが、戦争という生々しい現実の中にありながら、次第に話が寓話的色彩を帯びていくのだが、僕はそこに小学生の頃に読んだ手塚治虫の反戦短編マンガや、小川未明の童話「野ばら」を思い出した。国境に配置された老人と若者の兵士の話を覚えているだろうか。
映画は最後に大きな転換点を迎える。「野ばら」と違って、戦争はこの地にもやってきたのだ。
それもあっという間に。
映画が終わった時、生き残ったものも、死んだものも、いっとき幸せでいられた瞬間があったことを思い出す。
大義だろう、自己防衛だろう、自由だろう、いろいろあるだろうが、
死んでいく人たちにも、それぞれの家族があり、人生がある、私たちと同じ人間であることを忘れてはいけない。
これは世界の「辺境」での物語だが、それは世界のどこにでも起きる(起きた)話なのだ。
★★★☆前原利行

■関連情報 

2013年ワルシャワ国際映画祭最優秀監督賞、観客賞
2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート

2016年8月25日木曜日

クワイ河に虹をかけた男

アジア太平洋戦争下、旧日本軍が建設した泰緬鉄道ーー
「死の鉄道」の贖罪と和解に生涯を捧げた永瀬隆・20年の記録

 
2016年/日本

監督:満田康弘
製作・著作:KSB瀬戸内海放送
配給:きろくびと
上映時間:119分
公開:2016年8月27日(土)、ポレポレ東中野ほかロードショー

●ストーリー
 1942年7月、旧日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に着手した。建設工事には英、豪など連合軍捕虜6万人余りと25万人以上の東アジア労務者を動員。10年はかかると言われた415㎞のルートをわずか1年3ヶ月余で完成させた。だが、食糧・医薬品不足の中での過酷な長時間労働、拷問、伝染病の蔓延などによって、犠牲者は捕虜約1万3千人、労務者数万人に及んだ。
 永瀬隆、陸軍通訳としてタイ側の拠点カンチャナブリに従軍した。戦後まもなく連合軍が派遣した墓地捜索隊に同行し、その時に悲劇の全容を知る。その経験が、彼を犠牲者の慰霊へと駆り立て、1964年から妻と二人三脚の巡礼を開始した。カメラは、1994年の82回目の旅から永瀬の活動を追う。贖罪と慰霊、和解、そして数々の支援など、たった一人で戦後処理を続けた永瀬隆が、135回の最後の旅の果てに見たものとは・・。

●レビュー

 冒頭、元陸軍通訳だった永瀬隆さんは、待ち合わせていた元イギリス軍の兵士と対面する。頭を下げ、ただただ謝罪の言葉を伝える永瀬さんに日本軍の捕虜だった元兵士は「あなたは握手できるただひとりの日本人」といって手を差し伸べる。生涯で135回タイを訪問し、たったひとりで犠牲者を慰霊し、捕虜と軍関係者の和解事業を成功させるなどの活動を続けてきた永瀬さん。本作品は、永瀬さんと同じ岡山の地元放送記者満田康弘監督が、その晩年の20年間を追った渾身のドキュメンタリーである。

 なぜ、彼ひとりが謝罪しているのだろうか、最初のそのシーンから心が揺さぶられる。『戦場にかける橋』(1957)、最近では、『レイルウエイ 運命の旅路』(2013)で舞台となった泰緬鉄道。そこで行われた元捕虜やアジア人労務者に対する強制労働や拷問の実際は想像を絶するものだった。戦後も元捕虜たちに深い怨恨を残し、命を落とした労務者の遺骨が掘り起こされたまま供養されず、タイ山中で力尽き元日本兵も置き去りにされたたまま。映し出される事実は、私たちがあまりにも無知なこと、日本が戦後処理をことごとく無責任に放置してきた事実に衝撃を受ける。人としての尊厳があまりにも軽視されてきことへの堪え難い感情。永瀬さんの20年の活動を知るにつれ、永瀬さんを慰霊と巡礼の旅へと駆り立てていったものが少しずつ見えていくる。

 永瀬さんの活動は慰霊や和解だけに終わらない。復員する日本軍12万人全員にタイ政府が「米と砂糖」を支給してくれたという恩義に報いるため、タイの若者への奨学金事業を立ち上げ、タイの人々との深い絆も築き上げてきた。93歳で亡くなるまでの長い時間、様々な葛藤を抱えながらも自分の思いを貫いた人生の旅を続けた永瀬さん。戦後70年が経過した今だからこそと、私たちがひとりひとりがこうした記憶と記録を忘れることなく共有しなくてはならないと感じる。そうしたメッセージが深く心に届く作品だと思う。★★★★)

2016年8月11日木曜日

ソング・オブ・ラホール

SONG OF LAHORE

再起をかけたパキスタンの音楽家たち。ジャズに挑戦し世界に打って出た。

本場NYに招待され、いま、奇跡の一夜が幕を開けようとしている。






2015年/アメリカ (ウルドゥー語/パンジャビー語/英語)
監督・製作:シャルミーン・ウベード=チナーイ、アンディ・ショーケン
出演:サッチャル・ジャズ・アンサンブル、ジャズ・アット・リンカーン・センター・オーケストラwith ウィントン・マルサリス
配給: サンリス
上映時間:82分
公開:  8月13日(土)より、ユーロスペースほか全国順次ロードショー
公式サイト:http://senlis.co.jp/song-of-lahore/


■ストーリー

「ロリウッド」と呼ばれるパキスタン映画産業の中心地ラホール。数々の映画が作られるとともに、伝統音楽を使った映画音楽も数多く作られた。しかし、1970年代後半に始まるイスラーム化の波、90年代に台頭してきたタリバーンによる歌舞音曲に破壊によって映画界は衰退。音楽家たちはウェイターやリクシャ運転手に転職を余儀なくされる。そんな中、細々と活動を続けていた音楽家たちが伝統音楽再生のために立ち上がった。イギリスで成功した実業家イッザト・マジードが私財を投じて音楽スタジオを作ったのがきっかけだった。スタジオは完成し、集った音楽家たちはサッチャル・ジャズ・アンサンブルを結成した。





■レビュー

デイブ・ブルーベックの有名曲「テイク・ファイヴ」をインド音楽風にアレンジされたyoutube動画がツイートのタイムライン上に流れてきたのは、半年ほど前だったろうか。 そのときは「こういうのもありだな」と特に驚くこともなかった。というのも、インド音楽とジャズの融合はギタリストのジョン・マクラフリンやジョー・ハリオット=ジョン・メイヤーの『インド・ジャズ組曲』などで耳に馴染んでいたし、一時期、その手の音楽の収集に凝っていたからだ。その頃にくらべ、SNSや動画サイトによって情報は飛び交い、世界はますます狭くなっているのだから、こういう試みはあって当然だと思っていた。

だが、その動画の背後にはもっと深い事情があった。本作はその動画の演奏者、サッチャル・ジャズ・アンサンブルというグループを追ったドキュメンタリーだ。まず、彼らはインドではなく、パキスタン・ラホール出身のミュージシャンたちの集まりだった。1977年のハック陸軍参謀長によるクーデター以降、国家政策の”イスラーム化”により、歌舞曲は否定され、映画はもとより、パキスタンの伝統音楽は制限され衰退していった。原理主義的傾向はいっそう拍車をかけ、ほとんど瀕死の状態にあった。 サッチャル・ジャズ・アンサンブルが結成されたのは、音楽の存亡の危機を世界に訴え、その存在感を示すことにあった。「テイク・ファイヴ」動画公開によって、それは瞬く間に世界に広がって大きな話題となり、ついにジャズの聖地ニューヨーク公演招待にまでに発展する。

映画の最大の見所は、このニューヨーク公演のリハーサル風景だ。共演するウィントン・マルサリスの楽団に暖かく迎えられた一行だったが、4日間で18曲の音合わせをしなくてはならない。サッチャルのメンバーは全員が西洋音楽の教育を受けてるわけではなく、渡米前に楽譜を用意し練習してきたが、思惑通りにはいかない。それでも「音楽は世界の共通言語」だけあって、タブラなどのリズム隊やバーンスリーというパキスタンのフルートに似た楽器は見事に馴染んで行く。しかし、肝心の「テイク・ファイブ」演奏で問題が発生する。キー(調)の変更で、主旋律を奏でるはずのシタールが実力不足でソロを弾けないのだ。公演2日前で、なんと、そのシタール奏者は解雇されてしまう。柔和だったウィントン・マルサリスの顔が曇る。公演は大丈夫なのか…。

パキスタンとアメリカ、文化のパワーバランスも否が応でも見せつけられる。だが、結果的にそんなことも忘れさせてしまうアンサンブルを聴かせてくれる。正直言うと、82分という尺は物足りない。もっと彼らの演奏を見せてくれても良かった。同じような思いを抱いた人は、来日公演も予定されているらしいので、そちらに足を運んで生の音に接するのもいいかもしれない。

カネコマサアキ(★★★☆

■関連事項

2015年トライベッカ映画祭 ドキュメンタリー部門 観客賞

サッチャル・ジャズ・アンサンブル初来日公演
支援者緊急募集中!!


2016年7月4日月曜日

ラサへの歩き方 祈りの2400km +チベット映画傑作選

Paths Of The Soul


チベットの小さな村からラサ、そしてカイラスへ。
はるか2400kmを”五体投地”で巡礼の旅をする11人の村人たちの物語。



2016年/中国
監督:チャン・ヤン(張楊)
配給: ムヴィオラ
上映時間:118分
公開:7月23日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式サイト:http://moviola.jp/lhasa

■ストーリー

チベット自治州・マルカム県プラ村。ニマの父親が亡くなってからまだ四十九日が明けず、法事が行われている。ニマの叔父のヤンペルは、死ぬ前に聖地ラサに行きたいと願っていた。ニマは叔父の願いを叶えるため、巡礼に行く決意をする。
ニマとヤンペルが巡礼すると聞いて、私も連れていって欲しいと同行を願い出る村人たち。妊婦や幼い少女までが集い、巡礼のメンバーは11人になった。トラクターに荷車をつけ、テントや夜具、ストーヴ、食料などを乗せ、リーダーのニマが運転して先導する。妊婦と老齢のヤンペルをのぞくメンバーは「五体投地」でラサを目指す。さらに聖なる山カイラスへ。その行程は2400kmにのぼる。


■レビュー

かれこれ20年ほど前になるが、陸路で青海省ゴルムドから州都ラサへ、そしてテングリー経由でネパールへ抜けるコースを旅したことがあった。ラサのヂョカン寺周辺では各地から集まったと思われる巡礼者でごった返し、人ごみの中を五体投地している人々の姿を見かけた。またラサからエベレスト方面へ向かう幹線道路でも、五体投地をしながら移動する2〜3人くらいのグループをよく見かけた。その姿は、全身埃まみれで過酷そのもの。みな険しい顔をしていたし、特別な修験者のように映った。一体、彼らはどこから来て、どこへ向かうのか。おんぼろのランドクルーザーの車内で一瞬考えるが、その思いはすぐに流れる景色にかき消されていった。

この映画で描かれる巡礼は僕がイメージとして持っていたものとはかなり違っていた。11人の村人たちはどこか和気あいあいとした家族旅行をしているようにも見える。農耕用のトラクターに荷車をつけ、テントや寝具、ストーブや食料などを積んでいく。時々休憩して暖かいバター茶を飲む。夜は大きなテントの中で、体を寄せ合って眠る。きれいに整備されたアスファルトの道路のせいか、本来なら自分の身長分しか進まないはずの五体投地も、なんだか滑るようにスライディングして進み、ちょっとズルしてる?ように見えた。

案の定、ラウという町で、ハットをかぶった口うるさい老人が登場し、 五体投地のやり方に注意が入った。 「歩数が多すぎる、額を地面につけろ」だの、カム地方のファッションである頭の赤い飾りをつけていた青年には、「それを付けてやってはダメだ」と言う具合に。今どきの五体投地はこうなのだ、と一般化できないが、おそらく、五体投地や巡礼の方法も、時代とともに少しずつ変化しているのだろう。また、カム地方は信仰心の厚い人が多く、ラサはもちろんカイラスまで巡礼にいく強者が多いそうだが、巡礼の仕方は地方によって異なるのかもしれない。

彼らがなぜ巡礼の旅に出るのか、この映画は余すことなく伝えてくれる。フィクションだが、役者たちは実際にこの地方に住む村人たちで、彼ら自身を演じている。 それは、リティ・パニュ監督の作品を思い出すし、ラオール・ウォルシュ監督の『ビッグ・トレイル』(‘30)のようなドキュメンタリー性を帯びている。チャン・ヤン監督は基本的な設定だけを作り、それに見合う人を見つけてキャスティングしていったという。物語は、自然や文明の脅威にもさらされながら、時に出産したり、出会いと別れを経験したりしながら、チベット人の死生観を克明に描く。特に大仰な表現は見られず、実に淡々としている。それは、中国という枠組みにあるチベット人たちへの監督の節度ある距離感にも感じる。本来、このコースの巡礼には8ヶ月を要するらしいが、撮影には1年という歳月を費やしたという。映画製作自体が「祈り」にも似たスケールの大きな作品だ。
(カネコマサアキ★★★★


■関連事項

この映画の公開を記念して「チベット映画傑作選」開催される。

7月7日(木)
『静かなるマニ石』(‘05) ペマ・ツェテン監督  
『タルロ』『オールド・ドッグ』などの作品で知られ、作家でもあるペマ・ツェテン監督の処女作。少年僧の正月の里帰りを通して、村人たちの交流を描く。キアロスタミや張芸謀の児童映画に比肩するような素朴だが味わいのある傑作。

7月14日(木)
『陽に灼けた道』(‘11) ソンタルジャ監督  
自分が運転していたトラクターで誤って母親を殺してしまったニマ。自責の念にかられ、ラサへの五体投地の巡礼の旅に出るが…。青年の魂の彷徨を描く。

会場:アンスティチュ・フランセ東京エスパス・イマージュ
入場料金:1600円/前売り&電話・メール予約1300円
詳細: http://lingdy.aacore.jp/jp/news/77714.html



2016年6月30日木曜日

シアター・プノンペン

The Last Reel

激動の時代をくぐり抜けた一本の映画。
そこに秘められた家族の真実が明らかになる。



2014年/カンボジア
監督:ソト・クォーリーカー
配給: パンドラ
上映時間:109分
公開:7月2日(土)より岩波ホールにてロードショー
公式サイト:http://www.t-phnompenh.com/

●ストーリー

プノンペンに暮らす女子大生のソポンは、病を患う母親、厳格な軍人の父、口うるさい弟との息苦しい生活にうんざりしていた。授業をさぼって明け方まで遊び回り、父が決めた将軍の息子との見合い話から逃げ回る日々。ある夜、ボーイフレンドとはぐれた彼女は、廃墟の映画館に迷い込む。スクリーンには自分とそっくりの少女が映し出されており、壁の古いポスターにはかつて女優だった母の姿があった。映画館の主人で映画技師のソカと対面した彼女は、1974年に母が主演した『長い家路』という映画制作にまつわる意外な顛末を聴かされることになる。

●レビュー

『ゴールデン・スランバーズ』(2011年/ダヴィ・チュウ監督)というドキュメンタリーによれば、カンボジア映画の最盛期は1970年〜75年頃で、これはロン・ノルがクーデターを起こし、クメール・ルージュが首都プノンペンを制圧するまでの期間と重なるという。つまり、内戦下で映画が量産されたことになる。意外なことだが、戦火が広がるつれ、住民は街から出られず、映画に娯楽を求めたという理由らしい。

本作『シアター・プノンペン』の中に出てくる『長い家路』という架空の映画は1974年に製作されたという設定で、まさにこの辺りの背景を描いている。偶然から女子大生ソポンと劇場主のソカが出会い、『長い家路』の失われてしまった 最終巻を自分たちで撮り直そうと意気投合する。ソポンは思う。完成したら、かつて主演女優だった病気の母親ソテアを元気づけることができるかもしれない。一方、この映画製作に携わったソカはソポンにソテアの面影を見出していた。彼は40年間ソテアのことをずっと想い続けていたのだ。

撮影が進むにつれ、ソポンの母親と父親、そしてソカと彼の実兄の複雑な過去が明らかになってくる。クメール・ルージュによって引き裂かれたソカとソテアの悲恋が語られるが、終盤、捻りのきいた脚本に驚かされる。そこには「記憶・歴史の修正はあってはならない」という監督の歴史観が込められているようにも思う。73年生まれの女性監督は、クメール・ルージュ時代に幼少期を過ごしており、その時代を全く知らない若い世代との架け橋になる存在だ。また、母親役を演じてるのは往年の大女優ディ・サヴェット(『怪奇ヘビ男』1970年/ティ・リム・クゥン監督)。劇中映画は現実とオーバーラップする仕掛けだ。

この映画はカンボジア本国で興行収入の歴代1位のヒットになったという。悲劇の歴史を直視できるような余裕が生まれて来たからだろうか。(ちなみに、日本で知られるリティ・パニュ監督の作品はほとんど公開されていない)一方で、失われたと思われた往年のカンボジア映画の発見や整備も進んでいるようである。『12人姉妹』(1968年 リー・ブン・イム監督)という作品がアメリカで発見、日本でデジタル化され、先頃、恵比寿映像祭や大阪アジアン映画祭で上映された。情感あふれる特撮を駆使した貴種流離譚ともいうべきファンタジーに心踊らされた。こういった状況を見ると、新たなカンボジア映画の黄金時代が始まりつつあるのではないかと期待が高まる。
                                         
カネコマサアキ★★★☆


■関連事項

ソト・クォーリーカー監督は、「アジア三面鏡」というプロジェクトに参加予定で、トンレサップ川にかかる日本・カンボジア友好橋(1966年に完成したが、内戦で爆破され、94年に修復が完了した)にまつわる中編を準備中とのこと。こちらも完成が楽しみだ。