2015年11月29日日曜日

あの頃エッフェル塔の下で

誰もが心に秘めている、青春時代の苦い恋の追憶

               ©JEAN-CLAUDE LOTHER - WHY NOT PRODUCTIONS    

2015年/フランス
監督・脚本:アルノー・デプレシャン
出演:カンタン・ドルメール、ルー・ロワ=ルコリネ、マチュー・アマルリック
配給:セテラ・インターナショナル
上映時間:123分
公開:12月19日(土)、Bunkamuraル・シネマほか 全国順次公開
公式HP:http://www.cetera.co.jp/eiffel

●ストーリー
外交官で人類学者のポール(マチュー・アマルリック)は長い外国生活に終止符を打ち、祖国フランスへの帰国を決める。だが入国の際、パスポートに問題があるという理由から空港で足止めを食らう。自分と同性同名のパスポートを持つ、共産圏のスパイ容疑の男がいたことが伝えられると、ポールは、心の奥にしまい込んでいた望郷の念、そして青春の思い出を呼び起こしていく・・。

●レビュー
独り身で、長く外国に暮らした壮年の主人公。故郷へのノスタルジーなどないつもりだった彼が、空港での足止めをきっかけに青春を回想する物語で、1,子ども時代、2.ソビエト連邦、3.エステルの3つの章で綴られていく。原題は「青春の三つの思い出」。平凡ではない家庭環境で育った少年時代。パスポートの謎を解く東欧での出来事。そしてエステルとの恋がこの物語の大部分を占めている。

『そして僕は恋をする』などで知られるアルノー・デブレシャン監督は、若い頃の淡い恋の始まり、その後離れ離れに暮らしながらも思いを手紙に綴る恋人たちの姿、恋の葛藤に揺れる心情をノスタルジックに描いている。年を重ねた主人公ポールが、謎を解くようにエステルとの真実を紐解いていくあたりが、いかにもフランス恋愛映画らしい。奥手だったポールがパリの大学に進み自分の道を進み始めるのに対し、華やかに振舞っていたエステルが故郷の田舎町に残り、恋人を待つ姿の対比が印象的。その田舎町の風情に郷愁をそそられる。新人俳優のカンタン・ドルメールとルー・ロワ=ルコリネのふたりが不器用なまでに素朴でまっすぐなその若い恋人を演じたとてもいい。特に若いポールを演じたカンタン・ドルメールは心情を自然に体現し、現在のポールを演じた、名優のマチュー・アマルリックにつないでいる。

人はだれでも青春の淡く苦い思い出を持っていると思う。その頃と変わらない気持ちを持ちながらも、大人になって変わっていくこともあるだろう。設定が80年代ということもあって、何とも言えないノスタルジックな感覚に包まれる。
冒頭のタジキスタンの風景から始まり、ハンガリーの重厚な街並み、パリの華やかさ、田舎町の素朴さなど、風景の変化も楽しめる。(★★★)

第68回カンヌ国際映画祭監督週間 SACD賞受賞作品

*関連情報
公開を記念して、A.デプレシャン監督の『そして僕は恋をする』の特別上映会が開催される。
12月14日(月)18:45〜 Bunkamura ル・シネマにて
詳しくはこちら



2015年11月28日土曜日

アンジェリカの微笑み


The Strange Case of Angelica




2010年
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ(『永遠の語らい』『コロンブス 永遠の海』『ブロンド少女は過激に美しく』)
出演:リカルド・トレバ(『コロンブス 永遠の海』『ブロンド少女は過激に美しく』)、ピラール・ロペス・デ・アジャラ(『女王フアナ』『シルビアのいる町で』)
配給:クレスト・インターナショナル
公開:125日よりBunkamuraル・シネマほか


●ストーリー

ポルトガルのドウロ河流域の小さな町。夜半、町に一軒しかない写真館に、町の富豪の執事が撮影の依頼をしにやってくる。しかし店主は不在で、代わりに町に仕事でやって来て写真が趣味の青年イザクが紹介される。イザクが山手にある館に着くと、若くして死んだ娘アンジェリカの死を悼む人々が集まっていた。白い死に装束に身を包んだアンジェリクを、カメラに収めるイザク。しかし死んだはずのアンジェリクがイザクに微笑みかけた。それからイザクの頭から、アンジェリクが離れられなくなり、彼は死者に恋していく。

●レヴュー

知っている人はよほどの映画好きかもしれないが、「ポルトガルの生んだ至宝」と呼ばれている映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ。惜しくも201542日に亡くなったが、享年106歳。死の直前の2015年作の短編が遺作で、まさに“生涯現役”を貫き通した人である。初監督作品が1931年の『ドウロ河』で、それ以来、不遇だった6070年代をのぞけば、ほぼ毎年一作ペース、とくに90年代以降の活躍ぶりはすさまじい。日本でも90年代以降の作品は短編を除き、ほとんどが公開されているのではないだろうか。

さて、本作はそんなオリヴェイラ監督が2010年に撮った作品。脚本は1952年に書いたものがベースになっているが、そのときは主人公のユダヤ人青年に、第二次世界大戦時のユダヤ人迫害の過去を重ねていたようだが、その部分は現代には合わないと変更している。しかしそもそもこの映画、いつの時代か見ていてよくわからない。オリヴェイラ監督はインタビューで「現代」と言っているが、登場人物の服装や部屋の内装、ディティールは1950年代に見える。インターネットどころか、映画の世界にはテレビもない。有線の電話さえ普及していないように見えるし、人々の暮らしも現代に見えない。今どき、カメラを持っている人を探すのに苦労したりはしないだろう。しかし町の風景などは、とくに古く見えるように手を加えてはいない。それもヨーロッパの田舎町だから成り立つのだろうが。

話はまるで、日本の昔の小話のようだ。雨月物語とか芥川龍之介とかの。主人公は死者に恋をしてしまう。死んだアンジェリカの微笑みの表情を撮った瞬間、彼の心の中にそれは“生”を呼び起こす。生前のアンジェリカを彼は知らないし、どんな性格だったかも知らない。ただ、絵画の人物に恋してしまうように、すべては自分の想像の産物なのだ。客観的にみればそれば、肥大した自己愛だろう。しかし映画はイザクの主観なので、映画ではアンジェリカが夜はイザクの部屋に逢いにきて、空を二人で飛ぶ。そこではふたりは愛の言葉を交わす。これはどういうことなのか。

人は死んだら終わり、ということをオリヴェイラ監督は否定する。100歳を過ぎて死期が近づいた監督は、魂を信じ、その愛が生き残ることを信じたのだろうか。アンジェリカは登場したときにはすでにこの世の人ではなく、イザクは愛をかなえるためには、アンジェリカのもとに行かねばならない。つまり「死んで結ばれる」ことで、イザクの愛は成就し、イザク的にはハッピーエンドを迎えることになる。しかし、オリヴェイラ監督の答えはわからない。まだ彼の人生の半分しか生きていない僕には、到底考えが及ばないのかもしれない。ただ、いつものオリヴェイラ作品のように、観終わった後はキツネにつままれたような気になることだけはまちがいない。また、それも気持ちがいいのだが。★★★

●関連情報

主人公イザクを演じるのは、オリヴェイラ監督の実の孫で、オリヴェイラ作品の常連のリカルド・トレバ。アンジェリカを演じるのは、『女王フアナ』で一躍有名になったスペインの女優ピラール・ロペス・デ・アジャラ。彼女はコロンブスの子孫で、貴族の生まれとか。


2015年11月18日水曜日

黄金のアデーレ 名画の帰還


Woman in Gold

クリムトの名画の返還をめぐる、実話に基づいた話



2015
監督:サイモン・カーティス(『マリリン 7日間の恋』)
出演:ヘレン・ミレン(『クイーン』『REDリターンズ』)、ライアン・レイノルズ(『デンジャラス・ラン』)、ダニエル・ブリュール(『天使が消えた街』)、ケイティ・ホームズ(『エイプリルの七面鳥』)
配給:ギャガ
公開:1127日より全国公開


●ストーリー

1998年のロサンゼルス。姉を亡くしたマリアは、オーストリア政府にナチスに没収された叔母の肖像画の返還を求めるよう、駆け出しの弁護士ランディに仕事を依頼する。戦前のウィーンでユダヤ人資産家の家に育ったマリアだが、ナチスの台頭により両親を残し、夫と共にアメリカに移住したのだ。“小さな仕事”と最初は気が乗らないランディだったが、その肖像画がクリムトの名画で評価額が1億ドル相当であることを知り、一転して引受けることに。しかし二人が向かったウィーンの審問会では、申請は却下されてしまう。ホロコースト記念碑の前でランディの心が動く。ランディもユダヤ人で、曾祖父母も収容所で殺されたのだ。帰国したランディは、アメリカで返還訴訟を起こすことを決める。

●レヴュー

戦後70年たったいまでも、第二次世界大戦でのユダヤ人問題を扱った映画がどんどん作られている。苦難を味わった人々が高齢化して亡くなって行くことあるが、戦争を知らずに美化する世代が出てきたこと、相変わらず世界は平和にならないことなどもあるだろう。本作は名画をめぐる訴訟映画でもあるが、「権利を剥奪された人々が、名誉と尊厳を回復するために闘う」映画でもある。

本作は実話の映画化だ。2006年、当時の市場最高値(約160億円)となる落札価格で、クリムトの『アデーレの肖像』が競り落とされた。このニュースは世界に配信されたが、その絵はオーストリアのベルベデーレ美術館に収まっていたものだった。それをアデーレの姪のマリアが返還を求めて裁判を起こして勝訴した結果、競売にかけられたのだ。返還を求めた時、マリアはすでに82歳。彼女は、お金が目当てで裁判を起こしたのだろうか。

マリアの母と、絵に描かれたアデーレは姉妹だった。この姉妹はブロッホ家の兄弟とそれぞれ結婚し、大きな宮殿風のアパートで暮らしていたという裕福なユダヤ人だった。そのサロンにはクリムトはもちろん、作曲家のマーラーや作家のシュニッツラーも出入りしていたという。しかしオーストリアがドイツに併合されると、資産は没収され、両親を残してマリアたちはアメリカに亡命する。ナチスに没収された美術品は、戦後も所有者に戻ることがないものも多かった。所有者がすでに殺されていたりしたからだ。このクリムトの絵も、戦後はオーストリアのベルベデーレ美術館に収まっていた。もちろん、マリアもそのことを知っていた。しかしそれまでの法では、アメリカ人となった自分が相続権を主張する裁判が出来なかった。そしてマリア自身も「過去を忘れたい」という気持ちがあり、行動に起こすこともなかったのだ。

そんな彼女が決心したのは、「ナチスのユダヤ人迫害」が風化しつつある世相を危惧してのことだった。姉が死に、このまま自分が死んでしまったら、もう伝える人はいなくなるのではないか。そして叔母のアデーレの肖像が、単なる美術品としてしか鑑賞されなくなるのではないかという思いもあったのだろう。映画は現代と過去の回想シーンを行き来し、1枚の絵に込められたある一家の愛情を映し出す。“忘れてしまう”ことさえしなければ、亡くなった人々も、人の心の中で生き続けることが出きるのだと。

嫌な過去を忘れようとする風潮はどの国も同じだが、決してそれを忘れられない人もいる。もともと目的があって描かれたのが肖像画だ。たとえば自分に思い出深い亡くなった親族の絵が、自分を含め残された遺族に敬意を持たれずに、「国の宝」として飾られていたらどうだろう。その思いを知れば、マリアにとってこの絵が単なる“観賞用の名画”ではないことがわかるだろう。(★★★)

●関連情報 

・ライアン・レイノルズ演じる弁護士のランディ・シェーンベルクの祖父で作曲家のアルノルト・シェーンベルクも、ウィーンに住んでいたユダヤ人。キリスト教徒だったが、ナチスの反ユダヤ政策に反対して、ユダヤ教に改宗。第二次世界大戦中に、アメリカに亡命した。無調音楽で有名だ。

・現在、この絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像1」は、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されている。

2015年11月13日金曜日

ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲


White God

犬たちが人間に対して反乱を起こす。映画は少女と犬の絆の物語から、現代社会のメタファーと飛翔する。



2014
監督:コーネル・ムンドルッツォ
出演:ジョーフィア・プショッタ、シャーンドル・ジョーテール
配給:シンカ
公開:1121日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷
公式HPhttp://www.whitegod.net/http://www.whitegod.net/

●ストーリー 

ヨーロッパのある国で、雑種犬に重税を課すという法律が施行された。その国の町で暮らす13歳の少女リリは、母親の長期出張の間、離婚した父親のもとに預けられる。父ダニエルは大学教授の仕事を辞めて、今は食肉工場で働いている身だった。そんなリリの心の拠りどころは、飼い犬の雑種犬ハーゲンしかいない。ある日リリは仕方なく、ハーゲンを所属しているオーケストラのリハーサルに連れて行き、トラブルを起こした。ダニエルはリリの反抗的な態度に怒り、ハーゲンを遠くへ置き去りにしてしまう。野良犬となったハーゲンは、やがて拾われた先で闘犬として訓練されていった。野性に目覚め、獰猛になって行くハーゲン。一方、リリはハーゲンを探して町をさまよっていた。そしてハーゲンは施設の犬たちを引き連れ、人間に対して反乱を起こす。

●レヴュー 

町を疾走して行く、200匹近い犬たち。このオープニングから話は数ヶ月前に戻り、少女リリと飼い犬ハーゲンの物語にさかのぼる。主人公リリは、一緒に暮らしていた母親に恋人ができ、しばらく会っていない父親に預けられる。父親はかつて大学教授だったが、何か事件を起こしたのか、いまでは職人工場で働く身分だ。しかしプライドが強く、反抗的な娘に対して愛情を示すことができない。リリが心を許せるのは、愛犬ハーゲンだけだった。しかし、そんな孤独な少女と愛犬の感動物語と思って見ていたら、ハーゲンが捨てられるあたりから映画の雰囲気が変わって行く。

中盤は、路上に捨てられた犬のハーゲンが、闘犬として訓練(虐待に近い)されたり、捕獲されて収容所に連れて行かれたりする、ハーゲンのサバイバルドラマに変わる。ここで物語はリリからハーゲンの目線へと変わる。犬が虐待されるシーンは、犬好きには辛いだろう。犬同士を闘わせる闘犬も、ローマ時代のグラディエーターのように残酷なものだ。ハーゲンは人間への怒りを覚え、収容所の犬たちを率いて脱走する。町を駆け抜けていく犬たちの姿は、この映画最大の見せ場と言ってもいい。自由を得たものの解放感に満ちているからだ。しかしその後、少女との感動的な再会が待っている訳ではない。

その後の三幕目に当たる部分は、「ええ?」という意外な展開に向かって行く。安っぽいB級ホラーのようだ。ハーゲンを(犬たちを)いままで虐待していた人たちが、次々と犬に殺されて行く。いや、ひとりとかふたりならともかく、一幕目、二幕目に登場した人たち、ひとりひとりを再登場させて、ご丁寧に襲うシーンも。この演出がホラー映画の定番演出で、あきらかにやり過ぎ(笑)。怖いというより苦笑してしまう。何か違う映画を観ているようだ。

そして4幕目。はたして少女(人間)とハーゲン(犬)は和解できるのか。そしてリリの父親は、リリの信頼を取り戻すことができるのかというエンディングに向かって行く。そして映画はそれと同時に、寓話的色彩を帯びていく。このあたりになって私たちは気づいていく。この犬たちは、実は移民や格差社会のメタファーであることを。犬たちの収容所は、難民収容所やナチスの強制収容所をどうしてもイメージしてしまう。雑種は生きる価値がないというのか? 愛情がなくなったら捨ててしまうことは? 人間の楽しみのために、血を求めていいのか? 飼い犬にとって人間は神や親のような存在かもしれないが、それを勝手に見捨てることは? マイノリティを蜂起させるほど、追いつめることは? そんな問いかけが、観客に次々と投げかけられるだろう。とくに難民問題で揺れる欧州では、この作品を見て他人事とは思う人はいないだろう。

3幕目”のB級ホラー(定番過ぎて怖くない)シーンが個人的には減点だが、それでも最後には映画は力強さを取り戻す。今年見るべき映画であることは確かだろう。
★★★☆

●関連情報

カンヌ国際映画祭で、「ある視点」部門グランプリとパルム・ドッグ賞を受賞。