2015年7月1日水曜日

ルック・オブ・サイレンス


The Look of Silence

兄を虐殺で殺された青年が、加害者に初めて沈黙から声をあげる。





2014年/デンマーク、インドネシア、ノルウェー、フィンランド、イギリス


監督:ジョシュア・オッペンハイマー(『アクト・オブ・キリング』)
配給:トランスフォーマー
公開:74日よりシアターイメージフォーラム

●ストーリー


インドネシアのスマトラ島メダン近郊。老いた両親と暮らす青年アディは、1965年の虐殺で兄が殺された後に生まれた。母親は半世紀前に殺された息子への想いを胸に封じ込め、加害者と同じ村に暮らしていた。父親は認知症をわずらい、息子の記憶さえない。オッペンハイマー監督が撮影した加害者たちのインタビューを見たアディは、彼らがまったく罪の意識を感じないことに衝撃を受ける。そして加害者たちに会って、罪を認めて欲しいと訴えた。そこで眼鏡技師として働くアディが、無料の視力検査をすることで加害者たちに近づき、質問を投げかけ、その模様をカメラに収めることになった。

●レヴュー 

当初オッペンハイマー監督は、1965年に起きた100万人近い大虐殺の被害者側のインタビューを集め、それをドキュメンタリーにしようとしていた。しかし当局や民兵の度重なる妨害に遭い、撮影の中止を余儀なくされる。ところがその過程で、妨害していた側に取材対象を変えてみると、途端に彼らが協力的になることがわかり、加害者側を撮影して『アクト・オブ・キリング』を完成させた。この作品は各国で高い評価を受け、2014年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。その間、2012年の『アクト・オブ・キリング』の撮影中、被害者の弟であるアディの提案を受け、本作のメインである、アディと加害者の対話の撮影が行われる。『アクト・オブ・キリング』が公開されたら、オッペンハイマー監督はインドネシアには戻ることができないだろう。これが最後のチャンスだった。

『アクト・オブ・キリング』は、衝撃的な作品だった。迷信に左右される未開の社会ならともかく、「ふつうの文明社会にいる人たちが身近な人たちを虐殺できるのか」という問いの答えを見せてくれたからだ。もちろん、アイヒマン裁判が教えてくれたように、薄々はわかっていた。が、特殊な社会状況が人をそうさせるのではないかという、どこに「人のせいではなく、社会が悪い」的な甘い考えが自分にもあった。しかしこのドキュメンタリーを見て、それがまちがいであることはわかった。人は隣の人も、理由さえあれば簡単に殺すことができると。それはどんな社会でもあまり変わらない。「虐殺のメカニズム」を、冷静に、しかもわかりやすく見せてくれたのだ。インドネシアの場合、それが「共産主義」「中国系」だったが、それは別に他のものに簡単に置き換えがきく。普遍的なものなのだ。

『アクト・オブ・キリング』が、加害者側に自らの行為を語らせ、演じさせるという発想の転換の、実にユニークなドキュメンタリーだったのに対し、この『ルック・オブ・サイレンス』は被害者側の支店を入れる、オーソドックスな作品かもしれない。ただ、被害者側が淡々と訴えるという内容であれば、それは正論で、映画の中で善悪は完結してしまうだろう。そこで本作では被害者側が声を大きくあげるのではなく、むしろ「沈黙」を通さねばならなかったことについて考える。自分の息子を殺した人間と同じ村に住み続ける辛さ。沈黙の50年を生きた母親が口を開く。今まで家族以外、誰にもその無念を語ることはなかったろう。

カメラの前で殺害を自慢するものもいる。彼らは当然「善い行いをした」と思っているからだ。通常の神経なら、同じ村の、知り合いの息子を殺したことを、笑いながら話せないだろう。それに彼らは犯罪を生業としている訳ではない。政府の役職に就いたり、政治家になったり、教員になったりするものもいた。人を殺すことで一番重要なのは、自分が罪の意識を感じないことだ。それはたとえば極悪非道な事件が起きた時に、犯人が死刑になってもほとんどの人々の心は痛まない。それは、それだけのことをしたからという、納得できる理由があるからだ。この虐殺の加害者たちも、自分を正当化できる“理由づけ”がそれぞれに持っている。「正義のために」「上からの命令で」「宗教に反する」などだ。

殺害の様子を川のほとりで再現するいい歳のおじいさんたち。ニコニコしながら、「なかなか死ななくてね。何度も刺して、ペニスも切ったよ」と言っている恐ろしさ。犠牲者の血を飲むと狂わないですむという迷信から、血を飲んでいた殺害者の老人も怖い。いや、そこまででなくても、アディの母の弟が収容所で看守として働いており、結果的に見殺しにしていたことを姉に50年も黙っていたことも怖い。

このドキュメンタリーがすごいのは、そうした発言をうまく引き出していることだ。アディが加害者の老人のところに行って最初は目の視力検査を何気なくする。それから「あのころは大変だったでしょう」みたいに最初はさりげなく話題を切り出す。アディの年齢からして、当時のことは知らないはずということもあり、すっかり油断した老人たちは、「あやー、よく殺したよ。殺しても殺しても数が多くてさー」みたいに自慢気に話し出す。そこでアディは、「ところで、私の兄も殺されたんですよ。あなたたちに」と言う。その瞬間の動揺をカメラは見逃さない。すっかり不意打ちを食らった彼らは、「いゃ、命令に従っただけだよ」と言い訳をするものもいるが、「お前は俺を責めに来たのか」と怒り出すものもいる。このまるで“どっきりカメラ”のような展開が実にスリリングだ。人はなかなか人前では本性を現さない。カメラが回っていればなおさらだ。そのため、このような仕掛けが必要なのだろう。「虐殺を自慢している男も、本当は心に疾しいものを感じているのではないか」とアディは信じて始めるが、そこまで自分のしたことを冷静に見ている加害者はほとんどいない。

見ていて強く感じるのは、殴ったほうは殴ったことを忘れて、それすら思い出にできても、殴られた方は一生忘れることも思い出にすることもできないことだ。その痛みは過去のものではなく、今もリアルに感じられる痛みなのだから。
(★★★☆)

●関連情報

・前作『アクト・オブ・キリング』も必見。ぜひ併せて見たい。