2015年6月29日月曜日

サイの季節


Rhino Season


 妻を捜す、30年ぶりに出所した詩人。イラン革命が狂わせた3人の男女のさまよいを描く



 2012年/イラク、トルコ監督:バフマン・ゴバディ(『亀も空を飛ぶ』『ペルシャ猫を誰も知らない』)
出演:ベヘルーズ・ヴォスギー、モニカ・ベルッチ(『マレーナ』『灼熱の肌』)、ユルマズ・エルドガン配給:エスパース・サロウ
公開:711日よりシネマート新宿ほか

●ストーリー

1977年、王政下のイラン。詩集「最後のサイの詩」を発表し名声を得ていた詩人のサヘルは、司令官の娘のミナと結婚し、何不自由ない生活を送っていた。一方、ミナの家に雇われていた運転手のアクバルはミナに恋心を抱き、それを告白したことから、暴行を受ける。2年後、革命が起こり、政治体制が一変。サヘルは反体制詩人として禁固30年、ミナは10年の刑を受ける。彼らを陥れた人物こそ、かつての運転手アクバルで、いまや彼は新政府で力を持つ人間になっていた。10年後、ミナは出所するが、そこで知らされたのは夫サヘルの死。しかし彼は生きていた。2009年、サヘルは出所するが、世間的には彼はもうこの世にいない人間だった。それでもサヘルは妻を捜そうとする。

●レヴュー 

クルド系イラン人のバフマン・ゴバディ監督は、その長編デビュー作『酔っぱらった馬の時間』(00)から、現実にいま、目の前で起きていることを映画の題材にして来た。最初の3本はイランとイラク、トルコの国境地帯、いわゆるクルディスタンが舞台だ。あまりにも現実離れした過酷な世界は、神話的要素さえ帯びて来る。しかし、そうした現実を見せることは、“理想国家”にとっては反体制を意味した。海外での名声が高まるが映画はイランでは上映されることはなく、ゴバディ監督は当局に目をつけられ、イランのインディーズ音楽シーンを描いたドキュメンタリー『ペルシャ猫を誰も知らない』(09)を無断で撮った後は、亡命を余儀なくされる。

本作はそのゴバディ監督が亡命後に初めて撮った作品だ。主人公サヘルは、かつては高名な詩人だったがイラン革命地に逮捕され、その30年後の2009年に出所する。すでに“存在しない”人間であるサヘルは、妻を捜しにイスタンブールへとやってくる。亡命イラン人の組織が妻の所在を割り出してくれるが、イスタンブールには革命で国を追われた多くの人たちがいたのだろう。イスラム革命で国を追われた人々は、何も王政派だけではない。革命後に激しく行われた権力闘争で破れたものたち、クルド人勢力…。90年代半ばに僕は初めてイスタンブールに行ったとき、ガラタ塔近くにある“飾り窓”の話を聞いたことがある。そこで顔をのぞかす女性たちの中には、イラン革命で国を追われた良家の娘たちもいたという。

サヘルはイスタンブールで妻とその子供たちを見つけるが、名乗り出ることができない。ただ、遠くから見つめるだけである。死んだ幽霊が、ただ愛する人を見守ることしかできないように。妻は生活のために、タトゥーを彫る“彫り師”をしていた。彼女が刻むのは夫の残した詩だ。そんな彼女の周りには、常にアクバルの影があった。国を離れても、完全に新しい人生を送ることはできないのだ。サヘルは牢獄からは自由にはなったが、過去からは自由になることができない。新しい人生をはじめることができない。それはミナも、いや、彼らを陥れたアクバルとて同様だ。そこには荒涼とした“現在”がずっと続いている。

以前のゴバディ作品のテーマはシリアスでも、映画ではときおりそれを突き抜けるダイナミズムがあって、観ていて解放される瞬間が何度もあったのだが、本作では降ってくるカメ、車の窓から顔を入れる馬などユニークな映像表現があってもそれは外には向かわず、印象としてはどんどん内にこもって行く。映画内世界はどんよりとした空の冬の世界しかなく、とても荒涼としている。きっとそれが現在の監督の心情なのだろう。力作だが、そのやりきれなさが映画をただただ重苦しくしている。それが、逆に映画のスケールを狭くし、魅力に欠けさせているような気もするのだが…。(★★★)

●関連情報

主要人物である、サヘル、ミナ、アクバルだが、サヘルだけは若い時と現在を別な俳優が演じている。現在のサヘルを演じているベヘルーズ・ヴォスギーは、イラン革命前はイランで90本以上の映画に出た伝説の俳優だったが、革命で国を追われた。その長い流浪の生活が、しっかりと顔に刻まれているように見える。ミナを演じるモニカ・ベルッチは、映画ファンならご存知だろう。『マトリックス』23作目にも出演しているイタリア人女優だ。

本作に感銘を受けたマーティン・スコセッシ監督は、自分のネームクレジットを提供している。

2015年6月22日月曜日

チャイルド44 森に消えた子供たち


Child 44 

人間性を殺す、過酷なスターリン体制下のソ連。そこで起きた連続殺人事件の真相は?


2015年/アメリカ

監督:ダニエル・エスピノーサ(『デンジャラス・ラン』)
出演:トム・ハーディ(『マッドマックス 怒りのデスロード』『ダークナイト ライジング』)、ゲイリー・オールドマン(『裏切りのサーカス』)、ノオミ・ラパス(『プロメテウス』)、ジョエル・キナマン(『ロボコップ』)、ヴァンサン・カッセル(『ブラック・スワン』)
配給:ギャガ
公開:73日より全国ロードショー

●ストーリー

1953年のスターリン体制下のモスクワ。かつての戦争の英雄で、いまは国家保安省で働くレオの仕事は、反体制派を取り締まること。エリート捜査官として出世街道を歩んでいたレオだったが、ある日、レオの部下であるアレクセイの息子の遺体が発見される。明らかに殺人だったが、“犯罪は資本主義の病。理想国家で殺人はあり得ない”と上司の命令で事故扱いに。その後、レオはスパイ容疑をかけられた妻ライーサをかばい、地方に左遷されてしまう。そこでレオは、アレクセイの息子と同じ手口で殺された子供の遺体に出合う。付近に川はないのに溺死し、臓器の一部が抜き取られていたのだ。表立って捜査をすることは、国家に反逆すること。レオは密かに捜査を始めるが、同じ手口で殺された子供は、他に43人もいた。


●レヴュー 

僕は知らなかったが、このトム・ロブ・スミス原作小説「チャイルド44は、日本では2009年に「このミステリーがすごい」海外編で第1に選ばれたという。なので、映画になる前から楽しみにしていたミステリーファンも多いに違いない。出版前にこの作品を気に入ったリドリー・スコットは、当初自分が監督するつもりで映画化権を手に入れたという。しかし、自分は製作に回り、監督にはスウェーデン映画史上最大のヒット作となった『イージーマネー』(2010)のダニエル・エスピノーサを起用することにする。エスピノーサは『イージーマネー』の後、ハリウッドに招かれて、デンゼル・ワシントン主演の『デンジャラス・ラン』で大ヒットを飛ばす。

この映画のモデルとなった「チカチーロ連続殺人事件」は、実際に旧ソ連で起こった事件だ。ただし時代はスターリン政権下ではなく、もっと後。1978年から1990年にかけてと新しい。その間にチカチーロは52人の女子供を殺し、当局に何度もマークされながらも殺人を続けた。チカチーロの事件はとても有名なので、詳しくはウィキなどで読んで欲しいが、かつてのソ連では「この種の犯罪は資本主義の病理」ということで、取り上げられることはなかった。また、被害がソ連各地に及んでいたので同一犯と認識されず、民警の捜査も杜撰だった。しかし、ゴルバチョフ体制になり情報公開が進んだことやKGBが捜査に加わったことにより、彼の犯罪が明るみに出た。

映画(原作)では、時代を25年ほど昔のスターリン体制に設定し、連続殺人事件を盛込みながらも、その当時の人々がどのように生きていたかを克明に描こうとしている。真に恐ろしいのは連続殺人鬼ではなく、国家システムということだ。主人公、レオは国家保安省の取締官。彼自身は一般犯罪を調べる職務ではなく、国家に反抗する“裏切り者”を調べあげる組織に属している。何かのまちがいでも“裏切り者”のリストに上ってしまったら、それを撤回することはできない。リストにあるから無実であるはずがない。どうあがこうとも、結果は決まっている。まるで『未来世紀ブラジル』だ。明らかに殺された人間がいても「犯罪はない」とする一方、何も犯罪を犯してない人を拷問して殺す。そこにあるのはシステムだけで、人間はそのパーツにすぎない。

映画の前半は、このシステム側だった主人公がそこから追い落とされて地方に送られるまでを描く。途中、何度も「あれ? 連続殺人事件は?」と思うが、後半になって主人公が地方の民警に配属されてから、ようやく犯人を追い出すのだ。しかも主人公が捜査を始めても、彼を憎むかつての部下がいろいろと嫌がらせをしてきたりと、なかなか犯人探しには話は進まない。むしろそっちは重要じゃないのかなと思うと、犯人が出てきたりと、どっちつかずの感じがしてしまう。息をのむのはソ連の密告社会の冷徹さだが、これがとくに犯人とリンクしているようには思えないからだ。どうも犯人と犯人が犯す殺人は、主人公たちとの葛藤とはうまく結びついていない。この感じは、『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』の謎解きが、いまいちな感じによく似ている。あれだって謎解き以外のほうが面白かったし。

それでも映画でもっとも力を入れて描いている、主人公の価値観やそれまで信じていたことが崩れて行く中盤は、全体国家ソ連の怖さがよく出ている。ダニエル・エスピノーサの演出は地味ながらもしっかりとしていて、ずいぶんと丁寧に描いている。密告国家とは、どんな世界かを知るのには、いい作品だと思う。

(★★★)

2015年6月18日木曜日

しあわせはどこにある


しあわせはどこにある

Hector and the search for Happiness


人生に行き詰まった精神科医が、“幸福”を探しに世界を旅する




2014年/イギリス、ドイツ、カナダ、南アフリカ

監督:ピーター・チェルソム(『Shall we Dance ?』『ハンナ・モンタナ・ザ・ムービー』)
出演:サイモン・ペッグ(『宇宙人ポール』『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』)、ロザムンド・パイク(『ゴーン・ガール』『アウトロー』)、トニ・コレット(『リトルミス・サンシャイン』『シックス・センス』)、クリストファー・プラマー(『人生はビギナーズ』『サウンド・オブ・ミュージック』)、ジャン・レノ(『レオン』)、ステラン・スカルスガルド(『奇跡の海』『マイティ・ソー』)
配給:トランスフォーマー
公開:613日よりシネマライズ、新宿シネマカリテ

●ストーリー


ロンドンに住む精神科医のヘクターは、美人でしっかり者の恋人クララと何不自由ない生活を送っていた。しかし、毎日患者たちの不幸話を聞いているうちに、自分の人生がつまらないものに見えてくる。ヘクターは答えを求めて世界各地を旅することに。まずは中国へ。上海行きの飛行機で知り合った裕福なビジネスマンと遊びに行った先で、魅力的な若い中国人女性に知り合い、チベットの僧院では僧侶に悩みを打ち明ける。アフリカでは麻薬王と出会い、ギャング団に拉致される。ロサンゼルスではかつての恋人に再会する。はたして彼は“幸福”を見つけることはできるのか。


●レヴュー




いろんなタイプの映画があり、どうしようもないアクション映画とか褒めるのに苦労するのだが、この映画は期待は高かったのだが、久しぶりに退屈した。まあ、「そんな映画を紹介するな」と言われそうだが、なぜダメなのかをちゃんと考えてみようと思う。

映画の原作(「幸福はどこにある—精神科医ヘクトールの旅」NHK出版)は未読だが、解説によれば小説の形を借りた自己啓発本だという。その名残は映画のそこかしこに出ていて、ヘクターが旅でいろいろなできごとがあるたびに“幸せのヒント”をノートに書き付けて行く。「幸せとはありのままの姿で愛されること」「幸せとは時として、すべてを知りすぎないこと」といった、教訓というか標語というか。ただ、自己啓発本を読む人は最初から「啓発されたい」というモードに入って読んでいるが、映画を観る人はそうじゃない。別に面白ければいいし、主人公に共感するのも、自分がそうなりたいからではなく、主人公の気持ちがよくわかるからだ。つまり登場人物の心情に寄り添うことができなければ、映画は表面的にいろいろな出来事が起きるだけで、無味乾燥なものになってしまう。

ところが、この映画の主人公ヘクターには、ちっとも共感できない。更年期障害ではないが、生活には恵まれているのに漠然と「僕は幸せなのかなあ」では、よほどの人でなければ彼に入り込めないだろう。別に人一倍悲惨なできごとがあれば、という意味ではない。何不自由なくても精神が苦しいことは、演出やキャラ造型で示すことができる。ところが本作では、それが書き割りのキャラでうまくいっていない。軽いコメディタッチでもいい。笑わせるが、ポイントでシニカルな結果にして登場人物の思いに気づかせるウディ・アレンのような人もいる。しかし、監督・脚本のピーター・チェルソムからは、映画的表現のひらめきが感じられず、“幸せのヒント”の標語が出るたびに、押し付けがましさも感じてしまうのだ。

ちなみに、キャスト陣は僕の好きな人たちばかりだ。だが、誰もが深いキャラをみせておらず、ストーリーを進めるためにいるだけのキャラで残念。世界各地で主人公が出くわすアクシデントも、標語を導き出すためにひねり出されたストーリーのような感じ。各エピソードも毎回ヘクトールがノートに書き付けた標語でしめるが、それは毎回解答を提示されているようで、こちらに考えさせる間も与えない。「はいっ。この話の答えはこれです!」みたいな。

まあ、僕と違って、啓発を求めている人が本を読むような感じで、この映画を観ればまた違ったものがあるかもしれないが、豪華キャストの無駄遣いにしか思えない出来映えだった。もう劇場公開しているので、ハッキリ書けるが。
(☆なし)